HAIKU+報告 野中亮介さんの「水原秋櫻子は革命児なのか?」
7月18日、野中亮介さんの講演と対談がズームで開催されました。
水原秋櫻子は革命児なのか? 野中亮介
Ⅰはじめに
私がある文学館の企画展で「近代俳句の革命児 水原秋櫻子」との表題を目にしたのは13,4年ほど前のことです。その時以来、どうしても「秋櫻子が革命児である」との表記に違和感が拭えませんでした。
「革命児」といえばウラジーミル・レーニンやチェ・ゲバラのような大きな社会や政治の体制を、時には血の制裁をも厭わずに行う者、という印象があります。しかし、一時期、宮中に侍医として仕えた秋櫻子にそのような雰囲気はありませんし、第一、典雅、甘美を尽くした作品がそうでないことを如実に物語っています。
秋櫻子の略歴を辿れば、よく知られるように主宰誌「馬醉木」の昭和6年10月号に「『自然の真』と『文芸上の真』」を掲載し高濱虚子の下を去りました。つまり「ホトトギス」と決別した訳ですが、この事実が「「ホトトギス」に反逆した」とも「「ホトトギス」と袂を分かち清新な俳句の世界を築いた」というようにも解説されています。そう考えると、秋櫻子が、いわゆる「革命」を起して破壊しようとした世界は「ホトトギス」ということになります。だとすれば、秋櫻子の俳句世界は「ホトトギス」」よりも、より斬新なもの、俳句の本質ともいうようなものに迫っていなくてはならないでしょう。しかし、秋櫻子の俳句を読むにつれて、清新と思われるその作品も大きな虚子山脈のなかのひとつの峰に過ぎぬのではないか、と考えるに至りました。さらに申せばある面では後退してもいるのではないかと感じることがあります。これは多方面にわたり言えることですが、今回は窪田空穂との関係に的を絞って述べてみたいと思います。
Ⅱ聴覚的な「調べ」の側面より
秋櫻子が俳句を始める前に大正10年の秋より2年間、窪田空穂に師事し短歌を学んでいました。実作は大正8年の「朝日俳壇」への投稿から始まり翌年に空穂門下の宇都野研主宰の「朝の光」に入門、実作を誌上に見るのは大正10年の第2巻2月号からです。さらに研の導きにより空穂に直接に師事し自宅へも通っています。短歌から離れたあとも秋櫻子は終生、師弟の礼を尽くしています。
秋櫻子をまず驚かせたのは空穂の歌そのものに加え、歌会に出席した折に、投歌されたもの全てに講評を与える全歌講評に、それまで「ホトトギス」で味わうことがなかった「新し味」を感じ自分の句会でもすぐに取り入れています。この他、いくつかの空穂の歌会の機構や雑誌の編集から「馬醉木」の編集などのヒントを得ています。
さて、空穂の作風は「平淡美」と言われるように日常生活の些事を穏やかな色彩と抑揚の少ない調べで詠むことを中心に置くと言われています。秋櫻子が入門した頃は『万葉集』の研究に空穂は時間を費やしていたこともあって、評論家の中には、高浜虚子の無機質な「客観写生」に対抗し得た要因として、秋櫻子が身につけていた万葉的な調べがある、としたものや、従来のぽつぽつと切れがちな俳句のリズムに対し、秋櫻子が『万葉集』の調べを導入した、さらには、秋櫻子俳句は『万葉集』の心を反映したもの、というものも散見されます。
万葉調とは作者の心情を隠すことなくストレート、かつ壮大に詠むことで、賀茂真淵が「ますらおぶり」と評したのは有名ですが、実際、秋櫻子の俳句で万葉調と指摘されている俳句を見てみましょう。
葛飾や桃の籬も水田べり
葛飾や浮葉のしるきひとの門
連翹や真間の里びと垣を結はず
梨咲くと葛飾の野はとの曇り
蟇鳴いて唐招提寺春いづこ
これらの作品は秋櫻子の万葉調の句としてしばしば取り上げられるものですが、その理由として下線部の言葉が指摘されます。確かに『万葉集』の長閑な部分の影響を受けているようですが、逆に五七調で押し切るような迫力ある調べには遠いものです。さらに、風景句を専らにした秋櫻子には肉親や切実な生活の瞬間―関東大震災や第二次世界大戦など―の如実な環境を詠むという作品は極めて少ないのです。この点でも『万葉集』の防人の歌や東歌に見られるような作者の強い喜怒哀楽の心情を手放しで衒うことなく詠み込まれるものとは全く違うのです。むしろ、秋櫻子は一時、連作を推奨したり、群作においても一句から次の句へとあたかも絵巻物を繙くように場面を展開する「絵巻物仕立て」と呼ばれる構成を好むことや、繊細な技巧を基調に据えながら感覚的で、唯美的な調べを漂わせる点からも『新古今集和歌集』に近いと考えてもよいと思います。
さらに、後述しますが、秋櫻子は現実の風景描写のみに飽き足らずそこに心の中の幻想的で美しい風景を重ね合わせる視覚的な世界を創造することも、この指摘を後押しするものだと言えるでしょう。
Ⅲ絵画的な側面より
秋櫻子の素材開拓の場は、空穂の短歌に詠まれた日本アルプスを読んだことにより、その初期から山岳へと向けられていました。さらに、それがハイキングの流行と相俟って高原へと広がり、中西悟堂との交遊や同人、山谷春潮の存在から野鳥俳句へと行き着いたのです。秋櫻子はこの経緯を次のように述べています。
大正四年に上梓された第四歌集『濁れる川』/この歌集に載つてゐる穂高岳や槍ヶ岳の歌が私を夢中にしてしまつた。恰度小島烏水氏が「日本アルプス」といふ四巻の大著を上梓、上高地がはじめて世に紹介された直後で、学生達はみな日本アルプスに熱中してゐた時代だからであつた。
秋櫻子の山岳への傾倒ぶりが窺われる一文です。さらに秋櫻子の触手は高原や田園へと広がります。結社として「馬醉木」内での動きを見てみれば、昭和10年2月に秋櫻子、波郷、窓秋、辰之助たちは赤城山にてスキーの会を、昭和10年10月には小佛峠、昭和11年6月には大菩薩峠で「馬醉木ハイキング」と銘打って秋櫻子はじめ同人たちが大会を開いているのです。この延長線上に昭和16年6月に中西悟堂の浅間高原における「野鳥を聞く会」に秋櫻子は参加しています。このような環境より詠まれていったのが次の作品などです。
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 昭和2年 『葛飾』
飛騨に湧く夏雲嶺を越えきたる 昭和10年 『秋苑』
雪渓をあふげばそこに天せまる 昭和10年 『秋苑』
夏山を統べて槍ヶ岳真蒼なり 昭和10年 『秋苑』
天騒ぎ摩利支天岳に雷おこる 昭和10年 『秋苑』
向日葵の空かがやけり波の群 昭和11年 『岩礁』
筒鳥をかすかにすなる木のふかさ 昭和16年 『古鏡』
甘藍に照る日の渦や梅雨のひま 昭和18年 『磐梯』
野の虹と春田の虹と空に合ふ 昭和23年 『霜林』
時鳥野に甘藍の渦みだれ 昭和23年 『霜林』
べたべたに田も菜の花も照りみだる 昭和25年 『霜林』
山桜雪嶺天に声もなし 昭和28年 『帰心』
数多くあるこの傾向の代表例句を挙げてみました。これらの句の評価はどのようなものなのでしょうか。「西洋の絵の如き風景」「いかに斬新な明るい西洋画風な境地を開いているかということだ。これらの新鮮な感触に満ちた風景画が、それ以後の俳句の近代化に一つの方向をもたらした。日本流の牧場場よりも西洋流のmeadowという印象」「この印象派の外光主義の絵のような描写」など、ほんの一例を見ただけですが、このように西洋画のような明るさを持っていることが秋櫻子作品の大きな特徴であり、しかも、それが俳句の近代化をもたらしたかのような評価です。これは正しい評価なのでしょうか。「日本アルプス」への憧れから発し「ハイキング」や「野鳥を聞く会(バードウォッチング)」に根を持った秋櫻子のこれらの作品のが「俳句」というイメージが内包する世界を払拭する斬新さを読者に与えたのは想像するに難くありません。しかしながら、次の保田與重郎の言葉を考え併せてみましょう。
日本の風景観は大体が綿密な文明の方へ発展して行つたが、文明開化以後に一ぺんに堕落したのである。この時代の日本文化の文明の相が、すべて欧米文化の植民地地帯を作ることに汲々としてゐたやうに、日本の風景として紹介されたものはみな外国風景の断片であつた。西洋風景に似たものを国内にみつけると、これが世界的であると喜んだのである。
この指摘が全て秋櫻子の上記の傾向の作品に当て嵌まるとまでは申しませんが、少なくとも俳句の近代化に寄与したものではないと考えられます。一見、西洋、または、いわゆる西洋画のように派手で美しい世界に読者は酔ったのです。そして、秋櫻子の頭の中には好きな絵画を俳句で描いてみたいという気持ちがありました。芸術に上下はないとしても、この気持ち自体が俳句を絵画の下に置くものであり、俳句という手段を使って拓いて行く必要のなかった世界だったかもしれません。私は初学の頃、秋櫻子の代表句と言われるこれらの作品に深く魅せられました。憧れを抱いていたものです。しかし、いつの日が自分が感動しているのは俳句に詠まれた世界―とくに風景、そのものではなく、秋櫻子が描いた絵画ではないのか、との思いに至りました。
これは私が初めて指摘する極めて個人的な感想なのですが、秋櫻子のこの類の作品からは土や野川の香より絵具の匂いがしてくるのです。つまり、「香らない風景」があるのです。このような作品の陰に、私が今、魅了されている我が師、秋櫻子ならではの温かさと清廉さの滲み出る超一級の以下の句が隠れてしまっていることは作者自身にとっても不幸なことだと思うのです。
金色の佛ぞおはす蕨かな 『葛飾』
かきくらす雪より鴨の下りにけり 『秋櫻子句集』
鳥総松枯野の犬が来てねむる 『新樹』
風雲の秩父の柿は皆尖る 『新樹』
仏蘭西語日覆の前をすぎてきゝぬ 『秋苑』
水辺なる木影は水に朝ぐもり 『磐梯』
露けさの弥撒のをはりはひざまづく『残鐘』
顔見世や櫓の月も十五日 『蓬壺』
蟬鳴けり泉湧くより静かにて 『蓬壺』
秋場所や今日は彼岸の回向院 『旅愁』
遊蝶花春は素朴に始まれり 『旅愁』
十六夜の竹ほのめくにをはりけり 『晩華』
蔓はなれ月にうかべり鉄線花 『晩華』
草餅や東歌にはのこらねど 『緑雲』
綿虫やきのふいづこに今日こゝに 『緑雲』
釣瓶落しといへど光芒しづかなり 『餘生』
頼家もはかなかりしが実朝忌 『蘆雁』
いわし雲いづこの森も祭にて 『うたげ』
Ⅳ終りに
秋櫻子は「ホトトギス」と分かれることで、その後の新興俳句の祖のようにも考えらえています。秋櫻子以前にも虚子の下を去った俳人はいたとは思いますが、4Sとも称えられ「ホトトギス」の課題句の選者まで務めていた秋櫻子が決別したことは、それらとは比較にならぬほどのインパクトがあったには違いないでしょう。しかしながら、無季俳句を容認したり定型を崩すような方向とは明確に線引きをしていますし、自身の俳句はある面では虚子よりも古典的でありました。秋櫻子は確かに新興俳句幕開けへ引き金をひきましたが、その弾の飛ぶ先までは予想し得なかったのです。
