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きごさいBASE

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1月18日 第37回きごさい+報告


「一茶に見るわが国の園芸文化~世界最高水準の園芸文化とその庶民性~」

千葉大学大学院園芸学研究科 客員教授
『古志』同人
賀来宏和

 江戸時代、この国には当時の世界で最高水準の園芸文化が花開いていた。幕末にわが国を訪れた外国人は、庶民が園芸を愛好する様子を驚嘆の目で書き残している。
 
往古からわが国にある、植物など森羅万象に神性や精霊の存在を信じる原初的な信仰を土台として、折々に大陸から渡来した花を愛玩する習俗が、やがて観賞という作法をこの国に生む。大陸との交流が盛んな時期には、新しい植物や栽培方法などが渡来し、園芸に新しい光を与え、また、疎遠な時期には、それまでの蓄積を国風に熟成させ、わが国独自のものを作り上げる。そして迎える江戸期、世界の歴史上も珍しい比較的平和な260年余に亘る社会は、わが国独自の園芸を発展させた。
 江戸期の園芸文化は、徳川家康を始めとする将軍による植物愛玩に始まる。参勤交代制度による諸侯の江戸住まいと1657年の「明暦の大火」は数多くの大名庭園を生み出す契機となり、庭園造営の膨大な植物需要は、江戸近郊の農家が植木屋稼業を始める動機となった。
 世情が安定すると花鳥風月を楽しむ嗜好が生まれる。そのような成り行きに拍車をかけたのが、江戸中期の八代将軍徳川吉宗。吉宗は江戸近郊の飛鳥山、御殿山、墨田川などに桜を中心とする花の名所地を造る。これが、庶民を巻き込んだ花見文化を勃興させるとともに、身の回りでの植物の栽培や愛玩の風潮を生み出す。江戸後期には、時節の風俗として花見が定着するとともに、庶民の植物嗜好はやがて、品評会の「菊合せ」などの「花合せ」や見世物娯楽としての「梅屋敷」「朝顔屋敷」などの「花屋敷」、「菊細工」の「菊園」へと発展していく。
 こうして庶民が花見に繰り出し、身近に植物を愛でるようになると、面白くないのはこだわりの数寄者たち。誰でも持っている植物、栽培が容易なものは素人向きと、殊更に珍しい植物や栽培が難しいものを集める数寄者の園芸が一方で生まれる。
 「松葉蘭」と称されるシダ類の仲間。この奇妙奇天烈な植物を園芸化したのは日本人だけとされ、一鉢で家一軒が買える品種も出現、また、マンリョウの仲間である「百両金(カラタチバナ)」では一鉢2300両(今日の1億円以上)ものまで出たというから驚きである。
 また、諸藩では、殖産興業の目的を背景に持ちつつ、武士の精神修養としての園芸が行われるようになる。栽培を怠るとそれまでの努力が無駄となるのが植物との付き合いであり、これが精神修養に適うと捉えられたのであろう。
 江戸期に最高水準に達した園芸文化の特徴と言えば、独特の価値観や美意識による品種の選抜、栽培手法、観賞作法などが挙げられるが、見落としてはならない点は、園芸の庶民への普遍化である。当時の地球上で園芸がかくも広範に庶民化されていたのはわが国だけであったと言って過言ではない。

 小林一茶は生涯に二万句を残したとされ、『一茶全集』(信濃毎日新聞社刊)の第一巻『発句』には18,700余句が掲載されている。「雑の部」の植物に係るものを含め、植物の季題数は209。該当する発句は4,413句で、全発句の凡そ四分の一となる。
 これら発句を植物品目毎に多い順から並べると、「梅」421句、「花」376句、「桜」345句、「菊」 269句、「朝顔」159句、6位以下は、「柳」「竹」「稲」「栗」「紅葉」と続く。「花」は主として「桜」であり、「花」と「桜」を合算すると、多い順から「桜」「梅」「菊」「朝顔」となる。これこそが江戸期の庶民の四大観賞植物と称してよいだろう。
 一茶の特徴の一つが庶民性にあることは良く言われる。であるならば、その作品には、庶民が季節に楽しんでいた植物の様子が描かれているのではとの想像は見事に当たった。江戸後期の一茶の時代はまさに庶民園芸の絶頂期であり、幕末に訪れた外国人を驚かした庶民への広範な園芸の広がりの中心に一茶はいたのである。
 今回は、この四大観賞植物の中から、「桜」と「菊」を取り上げる。桜はわが国の自生種であるが、菊は大陸との交流の中で渡来し、国内で更に多様に品種化されたものである。勿論、わが国自生種のキク科の植物はイソギク、ヨメナなど多数あるが、「菊花展」で見る菊(イエギクとも言う)は渡来種もしくは渡来種を元に国内で更に品種化されたものである。
 まず「桜」。紙数の関係で、講演の中で取り上げた発句の一部を挙げてみた。

■東叡山寛永寺は一茶の頃も「桜」の名所、古田月船(一茶の俳友)と一緒に花見
   月船と登東叡山
  「御山はどこ上つても花の咲」 『文化句帖』(文化元年:一八〇四)
■徳川吉宗によって造られた「桜」の名所は江戸郊外
  「三足(みあし)程江戸を出(いづ)れば桜哉」 『七番日記』(文化七年:一八一〇)
■「花見」は江戸庶民の最大の行楽 
 「けふもまたさくらさくらの噂(うはさ)かな」  『真蹟』(文政三年:一八二〇)
■「桜」の名所は人だかり
 「花の山仏を倒す人も有(あり)」 『文化句帖』(文化四年:一八〇七)

■「花見」に「酒」はつきもの
  「畠縁(べ)りに酒を売(うる)也花盛(ざかり)」 『七番日記』(文化十五年:一八一八)
■やはり下戸組もいる
「下戸衆はさもいんき也花の陰」 『文政句帖』(文政八年:一八二五)
■将軍の御成りもあった「桜」の名所
  「くつろぎて花も咲(さく)也御成過(すぎ)」 『八番日記』(文政四年:一八二一)
■狼藉を働く武士も
  「上下(かみしも)の酔倒(よひだふれ)あり花の陰」  『文政句帖』(文政七年:一八二四)            
■天気予報では「晴」と出たが
  「十人の目利(めきき)はづれて花の雨」 『文政句帖』(文政七年:一八二四)
■仮病で仕事を休んで「花見」
  「二度目には病気をつかふ花見哉」 『文政句帖』(文政七年:一八二四)

 次に「菊」。
■よい仕立てのためには人の手で誘引
 「大菊や責らるゝのもけふ迄ぞ」 『八番日記』(文政二年:一八一九)
■一茶も「菊」を栽培
     菊植
  「山菊に成(なる)とも花を忘るゝな」 『七番日記』(文化十四年:一八一七)
■「菊」は渡来種、何度も大陸から新しい品種群が渡来
「大菊や今度長崎よりなどゝ」 『八番日記』(文政四年:一八二一)
■いよいよ勝負の「菊合せ」(「菊」のコンテスト)
 「うるさしや菊の上にも負かちは」 『七番日記』(文化十四年:一八一七)
■大名も「菊合せ」に参戦
「大名を味方にもつやきくの花」 『七番日記』(文化十四年:一八一七)  
■「菊合せ」の勝ち負け
  「負たとてしたゝか菊をしかりけり」  『八番日記』(文政三年:一八二〇)
■もう一つの庶民による「菊」の楽しみ方「菊細工」、巣鴨が中心
  「六あみだの代(かはり)や巣鴨の菊巡り」 『八番日記』(文政四年:一八二一)
■巣鴨などの植木屋の庭「菊園」はその季節には千客万来
  「菊茶屋のてんでに云(いふ)や一番と」 『八番日記』(文政四年:一八二一)
■「菊園」は飲食で商売、六次産業化
「茶代取(とる)とてならぶ也菊の花」 『八番日記』(文政三年:一八二〇)

ここに挙げた発句は、一茶が作品として残した庶民園芸のごく一部に過ぎない。
幕末の長崎に滞在し、江戸参府も行ったオランダ商館付き医官のシーボルトが帰国後に執筆した著書『日本』の中の小文「花暦」には、次のような一文がある。
曰く、「花好きと詩は日本において分離できぬ車の両輪である。」と。
当時の日本人が自然の中に抱いていた価値観と美意識、そして行動は、シーボルトの心をも確実に捉えていたのである。

<句会報告> 講演の後、句会が開催されました。選者:賀来邊庭、長谷川櫂
賀来邊庭 選
【特選】
侘助をだきて信楽蹲る           服部尚子
隣人に褞袍のままで御慶かな        木下洋子
一生を飛ばぬ梅またほころびぬ       イーブン美奈子
日当たりの方へ転がる朱欒かな       きだりえこ
柿童子おうとこたえる成木責め       服部尚子
【入選】
梵鐘を鳴らして落つる冬椿         きだりえこ
冬ざくら日はまだ高き山にあり       イーブン美奈子
ざんぼあや土佐の白波運び来て       きだりえこ
室の花ありやなしやと江戸をゆく      大平佳余子
梅の香に気づかぬほどに老いたまひ     森永尚子
苗売りの声裏店を曲がり来る        西川遊歩
漉きながす時の流れや冬芒         服部尚子
停電や無言の空に月冴ゆる         橘まゆみ
七種の何に魅かれて小雨かな        奈良握
椿の名つばらに聞かば百椿図        大平佳余子
飛梅のはるかな夢の蕾かな         イーブン美奈子
茶の花や里は三つの母語持ちて       イーブン美奈子
盆梅や鉢に都都逸きざむ粋         西川遊歩
のどけしやゴッホ焦がれし梅屋敷      西川遊歩
蠟梅は中将姫の涙かな           きだりえこ
吉原の桜自ずと奮い立つ          藤岡美恵子
今昔上野は花と人の山           越智淳子
白糸のごとく長らへ菊見酒         村山恭子
万有の引力の間に淑気あり         塚村真美
冬夕焼平野のかなた筑波山         佐藤森恵

長谷川櫂 選  (推敲例あり)
【特選】
タンカーの欠伸してをり春の海       上田雅子
寒木瓜の開きさうなる二輪かな       金澤道子
一茶忌や路地裏に置く植木鉢        谷口正人
【入選】
雪折を待つ一瞬のしじまあり        三玉一郎
初明かりぢつとしている埃にも       塚村真美
富士つくば天秤にかけ冬の月        賀来邊庭
冬ざくら日はまだ高き空にあり       イーブン美奈子
侘助をだきて信楽蹲            服部尚子
お隣へ褞袍のままの御慶かな        木下洋子
キジバトの番がけふも寒の梅        金澤道子
白梅の匂ふに似たり新暦          飛岡光枝
茶の花やヒマラヤは水こんこんと      イーブン美奈子
この年は雪多からん一茶の里        高橋慧
日の当たる方へ転がる朱欒かな       きだりえこ
餅花やぎしぎしと鳴る雪の家        飛岡光枝
盆梅を据ゑて畳の冷たさは         葛西美津子
仮設住宅ペンキ塗立去年今年        橘まゆみ
大寒や一茶生涯二万余句          葛西美津子

2025年1月22日 作成者: kasai3341 カテゴリー: お知らせ

10月 きごさい+報告 李哲宇さんの「麗しき島を詠む」

きごさいBASE 投稿日:2024年10月28日 作成者: kasai33412024年10月31日

10月19日、第36回きごさい+がズームで開催されました。

麗しき島を詠む
――「台北俳句会」と台湾の季語について――
李 哲宇

1. はじめに
1.1. 「台湾文学」と「日本文学」の狭間

戦後の台湾で白色テロ時代に、中国語以外の言語は禁止されていた。その中で、日本語で創作し続けている日本語世代がいる。しかし、次の世代との間に言葉の障壁により、様々な悲しみが生まれた。また、この世代間の断層が原因で、これらの韻文は「台湾文学」として見なされてこなかった。その上、外地人の作品であるため、「日本文学」ではなく、「日本語文芸」として位置付けられてきている。
様々な問題が起きている中、「台北俳句会」の主宰者である黄霊芝は言語を道具として扱い、国籍より文芸に焦点を当てるべきだと主張した。すなわち、ナショナルな連帯の日本語世代がいれば、黄霊芝のようにそれを超越しようとする人もいる。

1.2. 戦後の日台俳壇の交流について
従来の研究は戦後の台湾俳壇について、1970年に誕生した「台北俳句会」を中心として形成されたと指摘されており、終戦後から「台北俳句会」が誕生するまでの間は「空白期」か「伏流期」と呼ばれる(鳥羽田、2016;磯田、2018)。黄霊芝はこの間に『雲母』に投句したことを明言しており、言わばこの期間に日本俳壇と繋がった個人が存在した可能性が高いと考えられる。
また、「台北俳句会」の結成は「七彩俳句会」と主宰者の東早苗と関わっている。1980年に加藤山椒魚によって「春燈台北句会」が結成され、現在も毎月句会が開かれている。さらに、黄霊芝の著作『台湾俳句歳時記』(2003)は「馬酔木燕巣会」と主宰者の羽田岳水と関わっている。これらの日台俳壇の関係性から、日台俳壇の間では密接な関係があると示唆されている。

2. 「台北俳句会」について
2.1. 「台北俳句会」の歴史

「台北俳句会」の歴史は「創成期」、「発展期」、「高原期」、「成熟期」、「転換期」と五つの時期に分けられる(磯田、2017)。
また、「台北俳句会」は次の特徴を持っている(黄、2003)。①師事の問題。②会員構成の複雑さ。③多種多様な参加動機。④結社参加の選択肢の欠如。⑤様々な文事に携わる普遍性と趣味としての位置づけ。⑥会員に対する独立思考の推奨。⑦「台北俳句会」の今後の行方。
「創成期」には、各俳人の個性が作品に反映されていた。「発展期」には、「春燈台北句会」との少し関わりが窺えるほかにも、俳論の掲載や、自由律俳句や多言語での表現といった黄霊芝による俳句の試みが見られる。「成熟期」には、羽田岳水の賛助出詠と黄霊芝の『燕巣』で「台湾歳時記」の連載で両句会の協働関係が目立つ。「高原期」には、黄霊芝が有季定型の作法に戻り、連作を詠む特徴が見られる。「転換期」には、逝去した黄霊芝の代わりに、台湾季語を詠むことは句会運営の方針となり、黄霊芝の意思を受け継ぐ形となった 。

2.2. 日本俳壇との関わりから見る「台北俳句会」の発展
1970年に東早苗の訪台をきっかけに「台北俳句会」は「七彩台北支部」として誕生した。しかし、この関係は一年余りで破綻し、「台北俳句会」は独立した句会となった。両句会の間での破綻は、金銭上のトラブル(磯田、2017)や、主宰者の優位性を維持するために日本語世代への配慮が足りないこと(下岡、2019)などが原因であった。
ただし、黄霊芝と「台北俳句会」はこれによって日本俳壇と絶縁となっていない。例えば、『台北俳句会五十五周年記念集』には、東早苗、羽田岳水、福島せいぎ、吉村馬洗、坊城中子、稲畑広太郎、金子兜太、草間時彦、加藤耕子、園部雨汀、星野高士、長谷川櫂、石寒太等の俳人の訪台が確認できる。
「台北俳句会」と「日本伝統俳句協会」との合同句会では、坊城中子が台湾人が有季定型の作法を守るかどうかに対する危惧と戦前世代への配慮が見受けられる。実際に、国籍が翻弄され、アイデンティティが揺らいでいた「台北俳句会」の会員もいた。しかし、黄霊芝は文芸の主体性を強調し、多元的創作表現の重要性について語った。

2.3. 黄霊芝の芸術観と後継者の不要
芸術至上主義的な考え方の持つ(岡崎、2004)黄霊芝にとって、詩は最も自らの芸術観を表現できる文芸だと考えられる(黄、1979)。なお、2002年にNHKが取材しに来た際、日台間の政治問題に触れることで黄霊芝の不満を招いたため、「台北俳句会」の会報で文芸の主体性を改めて強調した。
また、黄霊芝は2003年に「台北俳句会」は「亡びを前提とした会」と語っており、2010年には全国日本語俳句コンテストへの協力に賛同しながらも、改めて後継者の不要を言及した。黄霊芝が求めているのは後継者ではなく、共に文芸を語り合える相手であろう。
しかし、「台北俳句会」には自らの歴史や記憶を理解してもらう日本語世代がいる。また、俳句会の存続などの問題も浮上してきている。そのため、「台北俳句会」は学生や地方公共団体とのイベントに取り組み、あるいはそれらを後援する姿勢を取っている。

3. 台湾季語について
3.1. 「馬酔木燕巣会」との協働

台湾俳壇史上の二冊目の歳時記である『台湾俳句歳時記』は、黄霊芝が1989年から1998年まで『燕巣』で「台湾歳時記」を題にして連載された内容を基づいた出版物である。編纂する経緯について、台湾ゆかりの羽田岳水が黄霊芝に協力を求めたという(岡崎、2004)。一時的な協働関係が成立したが、『台湾俳句歳時記』は最終的に黄霊芝の単著作品となった。この関係性について、羽田岳水と黄霊芝がそれぞれの作品における表現の主体性に対する認識の食い違いから生じた問題だと指摘されている(磯田、2018、阮、2020)。なお、『燕巣』での連載が終わった後、「台北俳句会」の例会では、のちに台湾季語となる兼題を引き続き出されていた。
3.2. 『台湾俳句歳時記』の特徴と独創性
「台湾歳時記」を連載し始める前に、黄霊芝は既に「日本趣味」を批判する文章が残している。また、黄霊芝は台湾季語の創出、を美の追求と位置付けている。
その上で、『台湾俳句歳時記』にはいくつの独自性がある。一つ目は、春夏秋冬を用いずに、暖かい頃、暑い頃、涼しい頃、寒い頃という斬新な分類法を使用したこと。二つ目は、台湾語を表現する振り仮名である。例えば、月来香(グエライヒョン)。三つ目は政治詠である。二二八(リイリイパッ) や光復節(クヮンフウチエ、(中))などが挙げられる。

3.3. 台湾季語の諸問題と台湾季語の現在
黄霊芝によれば、『台湾俳句歳時記』には次のような問題点がある。①寿命と歳時記の編纂期間。②資格の有無。③月刊連載のペース。④季の認定。⑤季語との区分範囲とその方法。⑥台湾における様々地理、民族や言語の問題。⑦地方による同じ言語の違い。⑧台湾語における読み言葉と話し言葉の違い。⑨振り仮名で台湾語表記の困難さ。⑩学問による季語の題名の違い。⑪「日本趣味」と「台湾趣味」の違い。⑫著者のために書くか読者のために書くかの問題。⑬先行研究の欠如。⑭完璧主義。
さらに、台湾季語や台湾俳人が詠む俳句が真に価値を発揮するためには、詠み手に理解力が求められている。

4. おわりに
4.1. 台湾俳壇のビジョン

「台北俳句会」の存続に賛成する理由は三つある。その一、文人のサロンとしてのトポス。その二、歴史を追体験できる空間の保有。その三、次世代の文芸家を育てるための場。

4.2. 日本俳壇の新たな可能性
作風が異なる俳人の興味を引き出す外地の俳壇から、現代日本俳壇の知識を学び合い、互いに刺激し合う可能性がある。

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講演後、句会が開催されました。

李哲宇 選
【特選】
台灣藍鵲秋の光を曳いて飛ぶ        長谷川櫂
【入選】
戦時下の台湾語る秋灯し          鈴木美江子
海といふ国境深し秋の空          高橋慧
なつかしき我家への道金針花        飛岡光枝
台北の朋も愛でゐる今日の月        長谷川冬虹
言の葉のさきはふ島や小鳥来る       趙栄順
紹興酒おくび香し秋の夜          越智淳子
荻の声近くて遠き国なりき         高橋慧
長き夜や台湾季語を繙けば         葛西美津子
青楓フォルモサの風聴きにけり       村井好子
ボロボロになりし歳時記秋惜しむ      金澤道子

飛岡光枝 選
【特選】
藍鵲か睡蓮の花か水浴びす         長谷川櫂
深けるほど灯りうねるや夏夜市       谷口正人
青楓フォルモサの風聴きにけり       村井好子
流星の闇へ投げ出す頭かな         藤原智子
【入選】
渡らざる鴎と我と遊びをり         イーブン美奈子
昆劇の恋の花咲く月夜かな         西川遊歩
秋灯の星のごとくに夜市かな        趙栄順
台北の朋も愛でゐる今日の月        長谷川冬虹
一本の真白き氷柱黄霊芝          三玉一郎
幻の茶がなるといふ霧の山         趙栄順
茶杯の香ゆつくり聞くや星月夜       村井好子
彗星の見つからぬまま虫の闇        金澤道子
黄さんの田うなぎ料理皿の上        西川遊歩
飛び交うて台灣藍鵲けさの秋        長谷川櫂

長谷川櫂 選  
【特選】
洟垂将軍霊芝少年大あばれ         飛岡光枝
昆劇の恋の花咲く月夜かな         西川遊歩
一本の真白き氷柱黄霊芝          三玉一郎
惜秋や夜毎聴き入るヨーヨー・マ      江藤さち
台湾は台湾なるぞビール干す        長谷川冬虹
【入選】
マオタイ酒きこしめしたかちんちろりん   趙栄順
夜空にも湧く大いなる鰯雲         高橋慧
果たてまで檸檬かつての黍の畑       橘まゆみ
月今宵ダン・ホワン・スーと茉莉花茶    村山恭子
息白しシェンドウジャンを啜り食ふ     村山恭子
茶杯の香ゆつくり聞くや星月夜       村井好子
紹興酒おくび香し秋の夜          越智淳子
大いなる秋月しづか街外れ         越智淳子
黄さんの田うなぎ料理皿の上        西川遊歩
缶の底の手揉みの紅茶秋深し        村井好子
流星の闇へ投げ出す頭かな         藤原智子

3月きごさい+報告「心ときめく雛祭りの菓子」

きごさいBASE 投稿日:2024年4月9日 作成者: kasai33412024年4月21日

3月16日、第33回きごさい+がズームで開催されました。講師は、きごさい+ではおなじみの株式会社虎屋・虎屋文庫主席研究員の中山圭子さん。中山さんの講座は今年で8年目、春夏秋冬の和菓子に続いて羊羹、落雁、南蛮菓子と毎回好評です。そして今回のテーマは「心ときめく雛祭りの菓子」でした。

講座 レポート 

3月3日の雛祭りが過ぎると、お嫁に行くのが遅れるからと早々にお雛様を片づけられてさびしかった。「旧暦で雛の節句を祝う地域もある」という中山さんのお話の通り、前に訪ねた山国の旧家では3月下旬というのに立派なお雛様が飾ってあって心が華やいだ。ずっと飾ってあればいいのに、と思わないこともないが、節句という節目があることが、一年を過ごしていく上で大切なのだろう。

雛人形も雛菓子も愛らしく美しく、女子限定の楽しいお祭り。中山さんのお話を聞くまではそんな単純なイメージだったが、雛祭りのルーツは中国伝来の厄払いの行事という。そういえば流し雛という儚い行事も今に続いている。そして雛菓子にも深い意味と歴史があった。

レジュメにそって、画面には生き生きとした錦絵や貴重な史料、美しく可愛らしい雛菓子の画像が次々と紹介され、中山さんの明快で楽しいお話が始まった。

〇雛祭りの歴史

 もともと雛祭りは上巳(じょうし)の節句と呼ばれ、中国の風習にならい、禊(みそぎ)や穢(けが)れ祓いが行われていた。雛人形の始まりも、身の穢れを移して川に流した「ひとがた」(形代(かたしろ)・後の流し雛)といわれる。人形を飾る女子の節句として定着するのは江戸時代に入ってからで、幕府が五節句の一つとしたことから、全国各地に広まった。

〇雛菓子について

上巳の節句には、厄祓いの意味から、香りの強い草餅を用意する習わしがあった。平安時代には、母子(ははこ)草(ぐさ)(春の七草のひとつ、ごぎょう)を餅に搗き交ぜた母子餅が主流だったが、雛祭りが定着する江戸時代には蓬を使ったものが多くなる(一説に母と子を搗き混ぜるのは縁起が悪いという解釈がある)。雛壇に供える菱餅は、草餅と白い餅を組み合わせた、緑と白の配色が一般的であった。菱餅の意味については諸説あるが、古代中国の陰陽思想の影響が強いのではないかと考えられる。

菱餅の形を不思議に思っていたが陰陽思想の関連とは驚いた。菱の形は女性の象徴、五月の節句の粽は男子の象徴、という解釈もあるのが興味深い。また、現在の菱餅は赤、白、緑の三色三段だが、江戸時代は緑と白の餅を交互に奇数に重ねていたのが文献に見られ、錦絵にも描かれている。何点か紹介された錦絵は雛段の豪華さや雛祭りを楽しむ人の様子が生き生きと描かれて楽しかった。

このほか、雛菓子として紹介されたのは、

〇雛あられ…煎った糯米、はぜ(爆米、葩煎)が原形。 関西の雛あられはあられやおかき類である。

〇あこや(いただき・ひっちぎり)…京都でよく見られる雛菓子。「あこや」とは真珠貝のことで、餡をいただいているので「いただき」、先端をちぎったような形から「ひっちぎり」ともいう。

「あこや」は不思議な形、そして色も可愛くてとても魅力的な菓子だ。江戸時代からあったが、雛菓子として江戸では定着しなかったとのこと。虎屋では京都店限定で雛節句の期間のみ販売しているそうだ。手に取って見てみたい、食べてみたい、東京で買えないとはとても残念。

〇そのほか…生菓子・金花糖・有(ある)平(へい)糖(とう)・落雁など

生菓子は桃の花や果実、蛤、お雛様などをモチーフにしたものが見られる。金花糖は砂糖液を木型などに流し込んで固めたもの。鯛や果物、野菜などさまざまな形があり、一般に中身は空洞である。有平糖は南蛮菓子のひとつで、飴細工である。

『宝暦(ほうりゃく)現来集(げんらいしゅう)』(1831自序)によれば、1770年代頃には、鯛や松竹梅をかたどった安い落雁などの雛菓子を行商するものもいたそうだ。また、幕府の御用学者、屋代(やしろ)弘(ひろ)賢(かた)らによる『諸国風俗問状答』(1813頃)は、各地の行事についてのアンケート調査のようなもので、雛祭りについての項目もある。草餅に母子草を使わない地域が多い中、出羽国秋田領や丹後国(京都府)峯山領などでは蓬同様、使用していること、備後国(広島県)深津郡本庄村では、昔は母子草で今は蓬にかわったことなどがわかるという。

江戸時代の雛菓子については、御所御用をつとめた虎屋の雛菓子の記録も紹介された。貞享4年(1687)3月3日には小さな饅頭を3000ばかり納めたそうだ。元禄年間には、模様入りの惣銀の折や杉重箱に菓子を詰め、納めたとのこと。小さい雛菓子を納める専用の雛井籠や重箱なども紹介されたが、なんて豪華で雅なこと! 御用記録の中には、雛菓子の大きさ(1.5~2㎝)がわかる略図を書いたものもあり、そんな小さな雛菓子が作れるの、とため息がでる。美しい入れ物に詰められたたくさんの愛らしい雛菓子、ご覧になった宮中のお姫様の驚きと喜びはいかばかりかと思う。

なお、現在にも伝えられる雛菓子は地方色豊かで、くじ(ぢ)ら餅(山形)、花饅頭・きりせんしょう(岩手)、金花糖(石川ほか)、ひな餅(島根)、からすみ(岐阜・愛知)、桃カステラ(長崎)、三月(さんぐゎち)菓子(ぐゎーし)(沖縄)ほかいろいろあるそうだ。

***

中国から伝わった厄を払う行事(形代を流す)が女子の成長を祝う華やかな雛の節句に、強い草の香りで厄を払う母子餅が色とりどりの可愛らしい雛菓子に、と江戸時代中期以降、日本では明るく楽しい雛祭りとして発展・定着してきた。一方中国では雛祭りのような行事は聞かないという。厄払いの食べ物を美しくおいしい菓子に変えていくのも日本人の特性かもしれない。また小さなものを愛でる感性は日本人が一番のような気がする。春のひと日、雛菓子の歴史と美に心ときめき、雛の節句の本来の意味を知る充実したお話だった。(葛西美津子記)

 

参考図書

亀井千歩子『日本の菓子』東京書籍 1996年
亀井千歩子『縁起菓子・祝い菓子』淡交社 2000年
『聞き書ふるさとの家庭料理 <別巻> 祭りと行事のごちそう』農文協編 2004年
服部比呂美「庄内地方における雛祭りの飾り物‐雛菓子と押絵雛菓子‐」
無形文化遺産研究報告第2号 所載 2008年
溝口政子・中山圭子『福を招くお守り菓子』講談社 2011年
つるおか伝統菓子 令和3年度・令和4年度「鶴岡雛菓子」調査報告書 (ネットで閲覧可)

開催中の虎屋の展示

  • 和菓子とマンガ

東京ミッドタウン店ギャラリー(六本木) 6月26日(水)まで

  • 家紋と和菓子のデザイン展

  虎屋 赤坂ギャラリー   5月30日(木)まで

 

虎屋文庫について

和菓子文化の伝承と創造の一翼を担うことを目的に、昭和48年(1973)に創設された「菓子資料室」。室町時代後期創業の虎屋に伝わる古文書や古器物を収蔵、和菓子に関する資料収集、調査研究を行っている。学術研究誌『和菓子』を年1回発行。

非公開だが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしている。

株式会社 虎屋 虎屋文庫 〒107-0052 東京都港区赤坂4-9-17 赤坂第一ビル2階

E-mail  bunko@toraya-group.co.jp TEL 03-3408-2402   FAX 03-3408-4561

 

句会報告   選者=中山圭子、長谷川櫂

◆ 中山圭子 選

【特選】
ひとひらの花びら紛れ雛あられ     飛岡光枝
遠山の雪を集めて金花糖        飛岡光枝
見えぬもの見てゐる母よ桃咲いて    イーブン美奈子
まだ夢を見てゐる箱の桜もち      飛岡光枝
花時の闇の向かふの戦火かな      宮本みさ子
雛あられこぼれて遠き昔かな      齋藤嘉子

【入選】
畳むとき緋毛氈より雛あられ      きだりえこ
祖母が煎る大地の色よ雛あられ     齋藤嘉子
どこぞより一声聞こゆ鶯餅       長谷川冬虹
桃の花けぶれる里に雛の家       葛西美津子
永遠にあれ戦なき世の雛祭       澤田美那子
白は雪淡紅は花雛あられ        長谷川櫂
春愁が色とりどりや雛あられ      三玉一郎
よもぎ餅搗いてみどりの杵と臼     宮本みさ子
雛あられくすくす笑ひだしさうな    葛西美津子

◆ 長谷川櫂 選
【特選】
まだ夢を見てゐる箱の桜もち      飛岡光枝
【入選】
嬰の目に春のつぼみがひらくかな    趙栄順
クレヨンで目鼻もらひぬ紙雛      齋藤嘉子
羊羹の切り口濡れて雛の間       宮本みさ子
草餅を少し温めて分け合うて      奈良握

今夜はご馳走 五月:新ごぼうとチーズのチップ

 旬のものにはなにかと「新」がつく。それは紛れもなく若さを示す。つまりアクも少ない。その代表格は「新ごぼう」だろう。泥付きをササガキすれば、新鮮な香が強く立ち上がる。それは土の香り。土の香りにさえ旨味を感じるのは味覚が多様な証。きんぴらのような定番だけでなく、昨今はごぼう料理も多様化。ピザ用チーズとササガキごぼうをレンジでチンすれば、ビールや酒のつまみに美味しいごぼうチップが出来上がる。

新ごぼう土の力の香りかな 越智淳子


  • これまでの「今夜はご馳走」  越智淳子
  • これまでの「今月のお菓子」  越智淳子
  • これまでの「今月の和菓子」 葛西美津子

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