「一茶に見るわが国の園芸文化~世界最高水準の園芸文化とその庶民性~」
千葉大学大学院園芸学研究科 客員教授
『古志』同人
賀来宏和
江戸時代、この国には当時の世界で最高水準の園芸文化が花開いていた。幕末にわが国を訪れた外国人は、庶民が園芸を愛好する様子を驚嘆の目で書き残している。
往古からわが国にある、植物など森羅万象に神性や精霊の存在を信じる原初的な信仰を土台として、折々に大陸から渡来した花を愛玩する習俗が、やがて観賞という作法をこの国に生む。大陸との交流が盛んな時期には、新しい植物や栽培方法などが渡来し、園芸に新しい光を与え、また、疎遠な時期には、それまでの蓄積を国風に熟成させ、わが国独自のものを作り上げる。そして迎える江戸期、世界の歴史上も珍しい比較的平和な260年余に亘る社会は、わが国独自の園芸を発展させた。
江戸期の園芸文化は、徳川家康を始めとする将軍による植物愛玩に始まる。参勤交代制度による諸侯の江戸住まいと1657年の「明暦の大火」は数多くの大名庭園を生み出す契機となり、庭園造営の膨大な植物需要は、江戸近郊の農家が植木屋稼業を始める動機となった。
世情が安定すると花鳥風月を楽しむ嗜好が生まれる。そのような成り行きに拍車をかけたのが、江戸中期の八代将軍徳川吉宗。吉宗は江戸近郊の飛鳥山、御殿山、墨田川などに桜を中心とする花の名所地を造る。これが、庶民を巻き込んだ花見文化を勃興させるとともに、身の回りでの植物の栽培や愛玩の風潮を生み出す。江戸後期には、時節の風俗として花見が定着するとともに、庶民の植物嗜好はやがて、品評会の「菊合せ」などの「花合せ」や見世物娯楽としての「梅屋敷」「朝顔屋敷」などの「花屋敷」、「菊細工」の「菊園」へと発展していく。
こうして庶民が花見に繰り出し、身近に植物を愛でるようになると、面白くないのはこだわりの数寄者たち。誰でも持っている植物、栽培が容易なものは素人向きと、殊更に珍しい植物や栽培が難しいものを集める数寄者の園芸が一方で生まれる。
「松葉蘭」と称されるシダ類の仲間。この奇妙奇天烈な植物を園芸化したのは日本人だけとされ、一鉢で家一軒が買える品種も出現、また、マンリョウの仲間である「百両金(カラタチバナ)」では一鉢2300両(今日の1億円以上)ものまで出たというから驚きである。
また、諸藩では、殖産興業の目的を背景に持ちつつ、武士の精神修養としての園芸が行われるようになる。栽培を怠るとそれまでの努力が無駄となるのが植物との付き合いであり、これが精神修養に適うと捉えられたのであろう。
江戸期に最高水準に達した園芸文化の特徴と言えば、独特の価値観や美意識による品種の選抜、栽培手法、観賞作法などが挙げられるが、見落としてはならない点は、園芸の庶民への普遍化である。当時の地球上で園芸がかくも広範に庶民化されていたのはわが国だけであったと言って過言ではない。
小林一茶は生涯に二万句を残したとされ、『一茶全集』(信濃毎日新聞社刊)の第一巻『発句』には18,700余句が掲載されている。「雑の部」の植物に係るものを含め、植物の季題数は209。該当する発句は4,413句で、全発句の凡そ四分の一となる。
これら発句を植物品目毎に多い順から並べると、「梅」421句、「花」376句、「桜」345句、「菊」 269句、「朝顔」159句、6位以下は、「柳」「竹」「稲」「栗」「紅葉」と続く。「花」は主として「桜」であり、「花」と「桜」を合算すると、多い順から「桜」「梅」「菊」「朝顔」となる。これこそが江戸期の庶民の四大観賞植物と称してよいだろう。
一茶の特徴の一つが庶民性にあることは良く言われる。であるならば、その作品には、庶民が季節に楽しんでいた植物の様子が描かれているのではとの想像は見事に当たった。江戸後期の一茶の時代はまさに庶民園芸の絶頂期であり、幕末に訪れた外国人を驚かした庶民への広範な園芸の広がりの中心に一茶はいたのである。
今回は、この四大観賞植物の中から、「桜」と「菊」を取り上げる。桜はわが国の自生種であるが、菊は大陸との交流の中で渡来し、国内で更に多様に品種化されたものである。勿論、わが国自生種のキク科の植物はイソギク、ヨメナなど多数あるが、「菊花展」で見る菊(イエギクとも言う)は渡来種もしくは渡来種を元に国内で更に品種化されたものである。
まず「桜」。紙数の関係で、講演の中で取り上げた発句の一部を挙げてみた。
■東叡山寛永寺は一茶の頃も「桜」の名所、古田月船(一茶の俳友)と一緒に花見
月船と登東叡山
「御山はどこ上つても花の咲」 『文化句帖』(文化元年:一八〇四)
■徳川吉宗によって造られた「桜」の名所は江戸郊外
「三足(みあし)程江戸を出(いづ)れば桜哉」 『七番日記』(文化七年:一八一〇)
■「花見」は江戸庶民の最大の行楽
「けふもまたさくらさくらの噂(うはさ)かな」 『真蹟』(文政三年:一八二〇)
■「桜」の名所は人だかり
「花の山仏を倒す人も有(あり)」 『文化句帖』(文化四年:一八〇七)
■「花見」に「酒」はつきもの
「畠縁(べ)りに酒を売(うる)也花盛(ざかり)」 『七番日記』(文化十五年:一八一八)
■やはり下戸組もいる
「下戸衆はさもいんき也花の陰」 『文政句帖』(文政八年:一八二五)
■将軍の御成りもあった「桜」の名所
「くつろぎて花も咲(さく)也御成過(すぎ)」 『八番日記』(文政四年:一八二一)
■狼藉を働く武士も
「上下(かみしも)の酔倒(よひだふれ)あり花の陰」 『文政句帖』(文政七年:一八二四)
■天気予報では「晴」と出たが
「十人の目利(めきき)はづれて花の雨」 『文政句帖』(文政七年:一八二四)
■仮病で仕事を休んで「花見」
「二度目には病気をつかふ花見哉」 『文政句帖』(文政七年:一八二四)
次に「菊」。
■よい仕立てのためには人の手で誘引
「大菊や責らるゝのもけふ迄ぞ」 『八番日記』(文政二年:一八一九)
■一茶も「菊」を栽培
菊植
「山菊に成(なる)とも花を忘るゝな」 『七番日記』(文化十四年:一八一七)
■「菊」は渡来種、何度も大陸から新しい品種群が渡来
「大菊や今度長崎よりなどゝ」 『八番日記』(文政四年:一八二一)
■いよいよ勝負の「菊合せ」(「菊」のコンテスト)
「うるさしや菊の上にも負かちは」 『七番日記』(文化十四年:一八一七)
■大名も「菊合せ」に参戦
「大名を味方にもつやきくの花」 『七番日記』(文化十四年:一八一七)
■「菊合せ」の勝ち負け
「負たとてしたゝか菊をしかりけり」 『八番日記』(文政三年:一八二〇)
■もう一つの庶民による「菊」の楽しみ方「菊細工」、巣鴨が中心
「六あみだの代(かはり)や巣鴨の菊巡り」 『八番日記』(文政四年:一八二一)
■巣鴨などの植木屋の庭「菊園」はその季節には千客万来
「菊茶屋のてんでに云(いふ)や一番と」 『八番日記』(文政四年:一八二一)
■「菊園」は飲食で商売、六次産業化
「茶代取(とる)とてならぶ也菊の花」 『八番日記』(文政三年:一八二〇)
ここに挙げた発句は、一茶が作品として残した庶民園芸のごく一部に過ぎない。
幕末の長崎に滞在し、江戸参府も行ったオランダ商館付き医官のシーボルトが帰国後に執筆した著書『日本』の中の小文「花暦」には、次のような一文がある。
曰く、「花好きと詩は日本において分離できぬ車の両輪である。」と。
当時の日本人が自然の中に抱いていた価値観と美意識、そして行動は、シーボルトの心をも確実に捉えていたのである。
<句会報告> 講演の後、句会が開催されました。選者:賀来邊庭、長谷川櫂
賀来邊庭 選
【特選】
侘助をだきて信楽蹲る 服部尚子
隣人に褞袍のままで御慶かな 木下洋子
一生を飛ばぬ梅またほころびぬ イーブン美奈子
日当たりの方へ転がる朱欒かな きだりえこ
柿童子おうとこたえる成木責め 服部尚子
【入選】
梵鐘を鳴らして落つる冬椿 きだりえこ
冬ざくら日はまだ高き山にあり イーブン美奈子
ざんぼあや土佐の白波運び来て きだりえこ
室の花ありやなしやと江戸をゆく 大平佳余子
梅の香に気づかぬほどに老いたまひ 森永尚子
苗売りの声裏店を曲がり来る 西川遊歩
漉きながす時の流れや冬芒 服部尚子
停電や無言の空に月冴ゆる 橘まゆみ
七種の何に魅かれて小雨かな 奈良握
椿の名つばらに聞かば百椿図 大平佳余子
飛梅のはるかな夢の蕾かな イーブン美奈子
茶の花や里は三つの母語持ちて イーブン美奈子
盆梅や鉢に都都逸きざむ粋 西川遊歩
のどけしやゴッホ焦がれし梅屋敷 西川遊歩
蠟梅は中将姫の涙かな きだりえこ
吉原の桜自ずと奮い立つ 藤岡美恵子
今昔上野は花と人の山 越智淳子
白糸のごとく長らへ菊見酒 村山恭子
万有の引力の間に淑気あり 塚村真美
冬夕焼平野のかなた筑波山 佐藤森恵
長谷川櫂 選 (推敲例あり)
【特選】
タンカーの欠伸してをり春の海 上田雅子
寒木瓜の開きさうなる二輪かな 金澤道子
一茶忌や路地裏に置く植木鉢 谷口正人
【入選】
雪折を待つ一瞬のしじまあり 三玉一郎
初明かりぢつとしている埃にも 塚村真美
富士つくば天秤にかけ冬の月 賀来邊庭
冬ざくら日はまだ高き空にあり イーブン美奈子
侘助をだきて信楽蹲 服部尚子
お隣へ褞袍のままの御慶かな 木下洋子
キジバトの番がけふも寒の梅 金澤道子
白梅の匂ふに似たり新暦 飛岡光枝
茶の花やヒマラヤは水こんこんと イーブン美奈子
この年は雪多からん一茶の里 高橋慧
日の当たる方へ転がる朱欒かな きだりえこ
餅花やぎしぎしと鳴る雪の家 飛岡光枝
盆梅を据ゑて畳の冷たさは 葛西美津子
仮設住宅ペンキ塗立去年今年 橘まゆみ
大寒や一茶生涯二万余句 葛西美津子