↓
 

きごさいBASE

NPO法人季語と歳時記の会のホームページ

カテゴリーアーカイブ: お知らせ

投稿ナビゲーション

← 古い投稿
新しい投稿 →

髙柳克弘さんの HAIKU+

きごさいBASE 投稿日:2019年12月11日 作成者: dvx223272019年12月11日

「今何が俳句で問題か」という統一テーマで、現在ご活躍中の俳人をお迎えして俳句の未来を考える「HAIKU+」。その第3回が12月1日神奈川近代文学館で開催されました。講師は俳人の髙柳克弘さん。人気、実力とも若手トップランナーのおひとり髙柳さんのお話に、参加者一同、惹きこまれました。以下、髙柳さんの講演録を紹介します。

〝軽み〟ならぬ〝重み〟の時代へ 髙柳克弘

はじめに
芭蕉が晩年に辿りついたという〝軽み〟。現代俳人にも少なからぬ影響を与える〝軽み〟ですが、口当たりの良い言葉がもてはやされる現代には〝重み〟こそが意味を持つのではないでしょうか。〝重み〟は主題を持つことで生じると私は考えます。俳句において季語は必ず主題であるべきなのか。俳句で思想や観念を書くことはできないのか。俳句ならではの主題の表現法とは何であるのか。みなさんと一緒に考えてみたいです。

私は一九八〇年に生まれ、いわゆるロストジェネレーション世代です。バブル崩壊後、将来不安が蔓延して、企業が新人採用を控えたので、就職氷河期になりました。そんな中、就職活動はしないで、俳句の研究や実作で生計を立てようとしたんです。とても不安なとき、芭蕉の「薦を着て誰人います花の春」という句が、すごく救いになっていたんですね。そんな思い出があるものですから、私の原点には、俳句は生を支えてくれるものといいますか、人生とは何か、生きるとは何かという主題をしっかりと持った、重みのある言葉だという認識があるんです。
私が今日お話しようと思っているのは、まずは①俳句には主題の重みがほしい、②主題を伝える技巧を磨きたい、ということです。

まずは①についてです。日常的で常識的な見方に即した句は、軽いのではないか。もちろん、日常的な感覚は大切です。芭蕉の「薦を着て」の句も、新春のにぎわいの中に見かけた乞食の姿が発想の源にあるわけです。ふつうだったら、はなやかな雑踏の中で薦をかぶっている人を見たら、かわいそうだ、とかああはなりたくない、というふうな感想を抱き、そのような感情を滲ませて詠むでしょう。でも、この句では「います」と、ふつうとは違う見方をしている。題材や言葉づかいは、日常から発していても、物の見方は、日常とは違う。つまり、俳句を作る主体は、生活者であることを、どこかで切り捨てなくてはならない。日常を成り立たせている常識を疑い、問いかけ、ときに否定する。今の言葉でいうところの、〝批評精神〟ですよね。芭蕉はそのことを風狂といったのではないか。日常を、日常的な視点から詠んでも、あまり面白い俳句にはならない。ある偏った物の見方、変わった物の見方をすることで、日常の中にも、さまざまな主題を拾うことができるのだということです。自分の中の、偏りやこだわりを大事にしたい。
題材が日常的であることや、言葉遣いが平明であることを軽いといっているのではなく、物の見方の軽さ、〝批評精神〟なき句を、「軽い句」と定義したい。
芭蕉はよく旅をしていますが、それも、旅人となり、生活者であることを切り捨てるためでしょう。生活者とは、この世で生きていく常識を身につけ、常識の範囲内で生き、生活を安定させることを第一に考える人、と定義しておきます。
旅の中で作られた句が、生活者の視点を切り捨てていることは、推敲の過程を見ればわかります。『おくのほそ道』の旅で、黒羽の光明寺の行者堂を訪れたときには、役行者の下駄を拝観して、「夏山や首途を拝む高あしだ」と詠んだ句を、
夏山に足駄を拝む首途かな
と直しているのは、見事な主題の発見だと思います。前者では、「高あしだ」の珍しさに主眼があるのですよね。直したあとだと、旅立っていくことそのものに主眼が移っている。前者は軽い句ですが、後者は重みが加わった、ということがいえるのではないか。旅で俳句を詠むとき、ついつい、物珍しさに目を奪われてしまうのは、まだ日常の意識が抜けていないから。あるいは、須賀川で等窮宅の庭に庵を結んでいた脱俗の僧・可伸を訪ねた際は、「隠家やめにたたぬ花を軒の栗」という句を作り、あとで、
世の人の見つけぬ花や軒の栗
と推敲しています。前者は、栗の花を、芭蕉もまだ見つけていません。隠れ家の主は見つけているのですが、芭蕉は見つけていない。でも、推敲したら、芭蕉も主の側にいってしまった。目立たない栗の花の良さを知る人になってしまった。「世の人」であることを、やめてしまっているわけです。
芭蕉が最後に行きついたのは軽みの境地だということで、現代俳人もそこに到るべきなんだ、とよくいわれますが、果たして芭蕉の最高の作はそこにあったのでしょうか。「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」という芭蕉晩年の句は、旅への妄執ということが主題になっている。軽みといいながら、芭蕉は最後まで、軽くなりきれていない。日常を日常のままに終わらせないのが芭蕉という俳人でした。
主題だ、重い句だといっても、俳句は音数がとにかく短いですから、人生だの愛だのといった観念的な命題を扱うのは難しいという意見は、古くからあります。俳句ではむしろレトリックを重視する立場ですね。何を詠うか、よりも、どう詠うか、が問題になるということです。思想対レトリックの構図で言えば、正岡子規と夏目漱石が若き頃に交わした書簡の言葉が、私にはとても響きます。
故に小生の考にては文壇に立て赤幟を万世に翻さんと欲せば首として思想を涵養せざるべからず。思想中に熟し腹に満ちたる上は直に筆を揮つて、その思ふ所を叙し沛然驟雨の如く勃然大河の海に瀉ぐの勢なかるべからず。文字の美、章句の法などは次の次のその次に考ふべき事にてIdea itself の価値を増減スルほどの事は無之やうに被存候。
明治二十二年十二月三十一日付正岡常規宛夏目金之助書簡より
明治二十二年ですから、彼らが二十二歳のときですね。子規が文章を書き散らしてばかりで、アウトプットばかりでインプットが足りない、だからもっと読書をして思想を持つように友人として助言している文脈であり、詩歌について述べたものではないのだけれど、思想を第一、レトリックを第二と強調しているのは、重要だと思います。なぜなら、夏目漱石は文章はもちろんのこと、やはりその俳句もかなり観念的だからです。
菫程な小さき人に生れたし    漱石
無人島の天子となれば涼しかろ
といった句は、彼のいうところのイデアの表明でもあるでしょう。欲得を離れた、自然や天命に従う生き方をしたいということ。後年、「即天去私」の四文字で示される思想です。漱石は、俳句でイデアを詠むことに何の問題もないということを証明してみせたわけです。手紙のやりとりのなかで、漱石の発言に、子規はまともに反論できていません。子規に限らず、近代俳句は長らく、漱石の問いかけ、つまり思想という問題から目を背けて来たように思います。
高浜虚子は「季題」という言葉で、俳句の主題を、季節の話題に限定してしまった。季語を深く詠みこんで、人生や真理の話題に至るということも、もちろんありうるでしょう。虚子の「去年今年貫く棒のごときもの」は、時間は移ろうのだけれど自分の意思だけは曲がらないという、伝統的な無常観に抵抗する思想を詠み込んでいます。ただ、季題中心主義では、表現し得ないものもある。虚子は、俳句に表現できる限界を定めたわけですが、俳句はそれほど狭いものではないのではないか。実際のところ、現代の私たちは、季語を主題にして句を作っているでしょうか。現実には、季語の力を借りて、といいますか、言い方は悪いのですが季語を利用して、だしにして自分の言いたいことを言っているのに近いのではないか。たとえば、
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る    中村草田男
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む   金子兜太
これらの句の場合、わかりやすく「妻抱かな」「原爆許すまじ」に主題があるといっていいでしょう。「春昼」や「蟹」という季語は、主役というよりも脇役です。こうした句は、季題中心主義によっては辿りつけない主題を持っています。

ここで、②主題を伝える技術を磨きたい、という話題に入っていきます。この技術というのは、主題を多義的に伝える技術といいかえられます。多義的、曖昧性とか、ポリフォニック(多声的)とか、さまざまな言い方を考えているところなのですが、要するに主題がはっきり伝わり過ぎないよう、ごまかすというか、まぎらわせる技巧がいる。たとえば兜太の句にはどこか「原爆許すまじ」の深刻さを茶化すような声もひそんでいる。「蟹」が出てくるところがそうでしょう。蟹がはさみをふりあげているのって、どこか滑稽ですよね。「蟹かつかつ」と妙にリズミカルなのも楽しい。原爆を取り上げた句に、滑稽味があるというのは、日常的な倫理からすると許されないことかもしれないけれど。でも、この句は滑稽味もあるから、悲壮感も際立ってくる句なんだと思います。
それから草田男の句も、「妻抱かな」はすごくエロティックなんだけれど、「砂利」を踏んでいるというのが、なんだかおかしい。「春昼の道踏みて帰る」じゃだめですよね。コンクリートの道をまっすぐ帰るというのでは、「妻抱かな」が伝わり過ぎる。「砂利」を出すと、リビドーに駆られてものすごく心は逸ってるんだけれど、砂利に足をとられて進みづらい、ジャリジャリ靴の音が鳴っている、ともすればコケそうになっている、というどこかリビドーに駆られている自分を茶化しているようなところもある。
これらは二つとも、ずいぶんまじめなことをいっているのだけど、どこか句の中には、そんなまじめさを茶化すような声も聞こえてくる。主題を示しつつ、主題を薄める、濁らすという処理が必要になってくるわけで、これは特に俳句に限ったことではないです。
主題を持つことは大切なんだけど、主観をぼかすことも大切だということ。ぼかした方が伝わると言うのかな。異化作用っていいますよね。すごく単純化して言うと、たとえば、竹下しづの女の句で、
短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎
は多義的、多声的ですが、仮に、
短夜や乳ぜり泣く子をひたあやす
などとしてしまうと、独白的になってしまう。短夜の句は、一句の中に、いろんな声がある。「明日も早いのに、いやになっちゃう」「いっそのことうっちゃってやろう」「いや、やっぱり大事な我が子だ」というふうに、漫画でよくある、頭の上で天使と悪魔があれこれ言っているみたいなものですね。主題としては我が子の愛おしさということになるでしょうが、それをぼかしている、わかりにくくしている、ということでしょう。わかりにくくないと、伝わらないという矛盾を、詩人は突破しなくてはいけないわけです。
さきほど、「軽み」ということはあまり芭蕉にとって重要ではなかったのではないか、最後まで芭蕉は軽くなりきれなかったではないか、というような話をしましたが、軽みの対義語は「重み」ではなくて、「重くれ」なんですね。否定的な意味がかなりこめられた言葉です。「重くれ」というのは、モノローグ的で、一方的な俳句が「重くれ」なのではないか。なかなか芭蕉の言葉を追っても「重くれ」の具体的な作例は見えてこないのですが、知識偏重で、作者が出張り過ぎている句を「重くれ」といっているようです。私は、『去来抄』にある、
時鳥帆裏になるや夕まぐれ  先放
について去来が、はじめは下五が「明石潟」であったのを、「夕まぐれ」に直したというエピソードに注目しています。去来は「時鳥帆裏になるや」でじゅうぶん景色としても情感としても面白いから時鳥の名所である「明石潟」をつけるのは「心のねばり」であるといっている。この「心のねばり」が「重くれ」に近いもので、読者の多様な解釈を妨げてしまうものだと理解しています。「明石潟」だと、「ふた声ときかずはいでじ郭公いく夜あかしのとまりなりとも 藤原公通」(『新古今和歌集』)にもあるような、時鳥の名所に来た喜びという、解釈が一つに定まってしまう。作者が意図する解釈ですよね。「夕まぐれ」だとぼかした感じになって、どこの港でもよくなる。
つまり、「重くれ」と「重み」は違うということ。「重くれ」は困るけれど、「重み」と「軽み」は矛盾しない。「重み」を備えた「軽み」もあるということです。結局のところ、これが理想なのでしょうね。作者の主張がきちんとこめられていながら、多様な解釈も許すという。現代俳人の例では、「来ることの嬉しき燕きたりけり 石田郷子」「夏の闇鶴を抱へてゆくごとく 長谷川櫂」「空へゆく階段のなし稲の花 田中裕明」などは、私の目指したい、重みのある句です。

最後に恥ずかしながら、私自身も主題を大事に作ってみた句をいくつか紹介してみます。
僕はちょっとおかしな家に育ちまして、父が暴力的というか、今でいうドメスティックバイオレンスが平気でまかりとおる家でしたので、「家庭」というのは本当に安らげるものなのか、家庭が束縛になることもあるのではないか、というようなことを、俳句を通して考えてみたいという思いがあります。
卓に葡萄「まるで家庭じゃないみたい」   克弘
聖家族万引き家族運動会
あとは、現代日本の大勢の人間が属している企業文化と、隔たったところで生きているという負い目と自負というものも、考えていきたいテーマです。
ビルディングごとに組織や日の盛      克弘
通帳と桜貝あり抽斗に
こんな感じです。もちろん、これらは自信作というわけではなく、いろいろ挑戦している途中といったところです。まだまだ長い俳句人生ですから、失敗も重ねつつ、生涯に二、三句くらい、主題を持った、重みのある句ができればいいと思っています。

「HAIKU+」12月1日は髙柳克弘さん

きごさいBASE 投稿日:2019年9月24日 作成者: dvx223272019年12月3日

「HAIKU+」は、「今何が俳句で問題か」という統一テーマで現在ご活躍中の俳人をお迎えして、お話を聞き、俳句の未来を考える催しです。
第3回「HAIKU+」の講師は俳人の髙柳克弘さん、

12月1日(日)に神奈川近代文学館で開催致します。
演 題:〝軽み〟ならぬ〝重み〟の時代へ
講 師:髙柳克弘(たかやなぎ かつひろ)

〈講師のひと言〉
芭蕉が晩年に辿りついたという〝軽み〟。現代俳人にも少なからぬ影響を与える〝軽み〟ですが、口当たりの良い言葉がもてはやされる現代には〝重み〟こそが意味を持つのではないでしょうか。〝重み〟は主題を持つことで生じると私は考えます。俳句において季語は必ず主題であるべきなのか。俳句で思想や観念を書くことはできないのか。俳句ならではの主題の表現法とは何であるのか。みなさんと一緒に考えてみたいです。

<講師プロフィール>
俳人、俳句結社「鷹」編集長。1980年、静岡県浜松市生まれ。早稲田大学で堀切実のもと芭蕉を研究。俳句実作は藤田湘子に師事。 第19回俳句研究賞受賞。 句集に『未踏』(第1回田中裕明賞)、『寒林』。 評論集に『凛然たる青春』(第22回俳人協会評論新人賞)、『どれがほんと? 万太郎俳句の虚と実』、 『芭蕉の一句』、 『蕉門の一句』ほか。  2017年度、Eテレ「NHK俳句」選者。11月10日から2月16日まで浜松文芸館で「ことごとく未踏 俳人・高柳克弘の世界展」 を開催。

日 時:2019年12月1日(日)14:00?16:15(13:45 開場)
14:00~15:30 講演
15:30~16:15 藤英樹(きごさい編集長)との対談、質疑応答

会 場:神奈川近代文学館 中会議室(横浜市、港の見える丘公園、〒231-0862 横浜市中区山手町110、みなとみらい線「元町・中華街駅」6番出口から徒歩10分)

http://www.kanabun.or.jp/guidance/access/
参加費:2,000円
申し込み:きごさいホームページの申し込み欄から、あるいはきごさい事務局にファクシミリでお申し込みください。

FAX 0256-64-8333

恋の俳句大賞(2019年前期)該当作なし

きごさいBASE 投稿日:2019年8月7日 作成者: dvx223272019年8月8日

恋の俳句大賞、前回同様、今回も該当作がありませんでした。

☆趙栄順 選
【特選】
夕立や新しい恋つれてこい 小島寿々
夏蜜柑香る男に惚れちまう 田村美穂
甘くても恋苦くても恋レモン水 明日也
おはようと目覚めし君と初笑ひ 朴文英
【入選】
かざぐるま君への想い空回り 矢作輝
死ぬほどの恋も二度ほど茄子の花 川辺酸模
好きですと言っては負けねチューリップ 鹿沼湖
帰すべきひとを帰して髪洗ふ 澤田紫
まだ肩に君の重さの朧月 椋本望生
喫茶店ポインセチアと待ち人と 佐々木健一

☆長谷川櫂 選
【特選】
きみとゐて心まぶしき雪野かな 武田百合
鯛焼きや恋人たちに焼き上がり 佐々木健一
麦の穂のごとき言葉をもらふ恋 永守恭子
【入選】
田植ゑて二人見上げる宵の星 川辺酸模
ジャスミンティーくるくる恋は終わらない 小島寿々
失恋の指に線香花火かな 鹿沼湖
わが恋を知るや知らずや落とし文 湯浅菊子
友情となりし恋あり遠花火 永井和子

恋の俳句大賞締め切りました

きごさいBASE 投稿日:2019年8月1日 作成者: dvx223272019年8月1日

たくさんの応募ありがとうございました。応募総数は2060句(前回は983句)でした。
入賞発表までしばらくお待ちください。
今日から2019年後期分を募集いたします。

「恋の俳句大賞」締め切り迫る

きごさいBASE 投稿日:2019年7月18日 作成者: dvx223272019年7月18日

第9回恋の俳句大賞の締め切りは7月31日です。大賞受賞者にはイニシャル入り銀製ペーパーナイフ(CHRISTOFLE)を贈呈いたします。

あなたの「恋の句」をお待ちしています。

投句はこちらから

9/22のきごさい+「和菓子で楽しむ秋」

きごさいBASE 投稿日:2019年7月6日 作成者: dvx223272025年9月28日

栗菓子いろいろ
画像提供:株式会社虎屋

中山圭子さんの「和菓子で楽しむ秋」
第19回 きごさい+は、9月22日(日)いつもの神奈川近代文学館で
開きます。講師は虎屋文庫の中山圭子さん。
前回に続き、虎屋の和菓子つきです(定員50名)。
お茶は各自ご持参ください。

演 題 :  和菓子で楽しむ秋

講 師 :  中山 圭子 (虎屋特別理事、虎屋文庫主席研究員)   
略 歴: 東京藝術大学美術学部芸術学科卒業。四季折々の和菓子の
デザインの面白さにひかれて、卒論に「和菓子の意匠」を選ぶ。
現在、和菓子製造販売の株式会社虎屋の資料室、虎屋文庫の研究員。 
著作に「事典 和菓子の世界 増補改訂版」(岩波書店)、「江戸時代の和菓子デザイン」(ポプラ社)、「和菓子のほん」(福音館書店)など。     

<講師のひと言> この季節ならではの栗菓子ほか、9月9日の重陽の節句、月見、紅葉狩などに関連した和菓子の数々をご紹介します。

日 時: 2019年9月22日(日)13:30〜16:30 (13:10 開場)
13:30~14:30 講座 
14:50 投句締切(当季雑詠5句)
14:50~16:30  句会

会 場: 神奈川近代文学館 中会議室  (横浜市、港の見える丘公園)
〒231-0862 横浜市中区山手町110 TEL045-622-6666
みなとみらい線「元町・中華街駅」6番出口から徒歩10分
http://www.kanabun.or.jp/guidance/access/
    
句 会:  当季雑詠5句(選者=中山圭子、長谷川櫂)
        句会の参加は自由です。 

参加費:  きごさい正会員1,000円、非会員2,000円 虎屋和菓子つき、飲み物は各自ご持参ください。

参加申込み: 事前申込みの方には虎屋の和菓子を用意します。9/17(火)までにきごさいホームページ申し込み欄から、あるいは電話、FAX、でお申し込みください。申込みなしの当日参加もできますが、お菓子は申込者優先とさせていただきます。  きごさい事務局 TEL&FAX 0256-64-8333 

『こども歳時記』増刷、8刷に

きごさいBASE 投稿日:2019年4月27日 作成者: gokoo2019年4月27日

『こども歳時記』(長谷川櫂監修、季語と歳時記の会編、小学館)が2014年発売以来、8刷になりました。今回2000部増刷、累計22,000部となります。

6月2日、きごさい+は「キリシタン版と日本人」

きごさいBASE 投稿日:2019年4月13日 作成者: dvx223272025年9月28日

お話いただくのは東京大学で南蛮文化の研究をされている岡美穂子(おか・みほこ)准教授。天正少年遣欧使節の帰国とともに伝わった活版印刷技術。その技術を使った本づくりの裏側で働いていた日本人の話です。公園の薔薇も花盛り、初夏の横浜にお出かけください。

演題:天正少年遣欧使節の光と影―キリシタン版と製作に関わった日本人―
講師:岡 美穂子(おかみほこ)東京大学准教授 
プロフィール:京都大学大学院修了。博士(人間環境学)。2003年より東京大学史料編纂所助手、助教を経て、現在准教授。専門は南蛮貿易、キリシタン史。著書に『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』(東京大学出版会2010年)、共著に『大航海時代の日本人奴隷』(中央公論新社、2017年)。第17回ロドリゲス通事賞受賞。
講師よりひと言: 活版印刷技術は「西洋文明」を代表するイメージなだけに、その運用に日本人が大いに関わっていたことは、ほとんど知られていません。なぜ、「平家物語」が印刷されたのか、という謎にも新説を交えながら、当時のイエズス会内部の日本人知識人のことを知っていただきたいと思います。

日時:2019年6月2日(日)13:30〜16:30(13:10 開場)
・13:30~14:30 講座 
・14:50~16:30 句会
会場: 神奈川近代文学館 中会議室(横浜市、港の見える丘公園、〒231-0862 横浜市中区山手町110、TEL045-622-6666、みなとみらい線「元町・中華街駅」6番出口から徒歩10分)http://www.kanabun.or.jp/guidance/access/
 
句会:当季雑詠5句(選者=岡美穂子、長谷川櫂)投句締切 14:50。句会の参加は自由です。 

参加費:きごさい正会員1,000円、非会員2,000円。
申し込み:きごさいホームページの申し込み欄から、あるいはきごさい事務局に電話、ファクシミリでお申し込みください。TEL&FAX 0256-64-8333。申し込みなしの当日参加もできます。

「きごさい」新年度会員を募集しています

きごさいBASE 投稿日:2019年3月16日 作成者: gokoo2025年9月28日

正会員の年会費は3000円です。賛助会員は1500円です。
正会員には
・きごさいの会報「きごさい」(年一回発行1500円)を無料で配布いたします。
・年数回開かれる「HAIKU+」のイベントに1,000円で参加できます。(一般の参加費は2,000円)

会員の申し込みは

こちら

からどうぞ。

「きごさい」第11号できました

きごさいBASE 投稿日:2019年3月16日 作成者: gokoo2025年9月28日

「季語と歳時記の会」の今年度の会報「きごさい」第11号が完成しました。特集は「祭」です。

民俗学者・歌人の折口信夫(釈迢空)の祭起源論「ほうとする話」を、國學院大學の小川直之教授に分かりやすく読み解いてもらいました。

編集部による「祭歳時記」も載せています。また「HAIKU+(今何が問題か)」では若手俳人たちがトークを繰り広げています。

歳時記の学際的研究の場として、創刊から第10号まで「歳時記学」のタイトルで発行してきましたが、11号から「きごさい」のタイトルに変わり、表紙のデザインも一新しました。

投稿ナビゲーション

← 古い投稿
新しい投稿 →

きごさい歳時記


「日本の暦」2026年版


今夜はご馳走

季節文化を発信

NPO法人「きごさい」(季語と歳時記の会)は、ネット歳時記「きごさい」を中心に季節文化を発信する仕事をしています。その活動はボランティアのみなさんの力で運営されています。賛同される方はご参加ください。

きごさいの仕事

  • ネット歳時記「きごさい歳時記」
  • 山桜100万本植樹計画
  • 「きごさい(電子版)」の発行
  • きごさい全国小中学生俳句大会【募集要項】
    • これまでの受賞句

メニュー

  • top
  • デジタル句集
  • 入会申し込み
  • きごさいのスタッフ
  • 恋の句 今までの受賞句
  • お問合せ
  • 管理

リンク

  • カフェきごさい
  • 日本学校俳句研究会

きごさいの本


「きごさい」第18号購読可
きごさい
1,500円
2026年3月刊行

「きごさい」第17号購読可
きごさい
1,500円
2025年3月刊行


『大人も読みたい こども歳時記』(10刷)
長谷川櫂監修 季語と歳時記の会編著
小学館
1,600+税
2014年3月刊行


『花のテラスで Ⅱ』
福島光加
花神社
2300+税
2018年4月刊行


『花のテラスで』
福島光加
花神社
1,900+税
2014年9月刊行


「第14回全国小中学生俳句大会作品集」購読可
きごさい
500円
2025年3月刊行


「大震災をよむ」購読可
長谷川櫂選 きごさい
1,000円
2011年5月刊行


購読はお問合せからお申し込みください。振込口座をお知らせいたします。

↑