「HAIKU+」①西村麒麟さん
批評が絶滅してしまった現在の俳句。きごさいでは俳句の批評を復活させるために「HAIKU+今何が問題か」を企画し、その第一回目が5月5日神奈川近代文学館で開催されました。
「俳句で今何が問題か」をメインテーマに、西村麒麟さん、鴇田智哉さん、阪西敦子さん、マブソン青眼さんといった気鋭の俳人4名が、それぞれの立場からスピーチを行ないました。
スピーチのあとにはインタビュー、参加者との質疑応答も充実したものとなりました。
以下は4名の講演者によるスピーチの概要、各要旨のあとに関根千方さんのレポートが続きます。
1「アンソロジーについて」 西村麒麟
1.アンソロジーとは
アンソロジーとは何か?と言いますと、詞華集と日本語で訳されます。詩や文章の選集のことです。ギリシア語の「花を摘む」という言葉から来ているそうです。日本の文学史はアンソロジーの宝庫で、万葉集、古今集、新古今和歌集、それに百人一首などは全てアンソロジーと呼んで良いものです。中国の『文選』や『唐詩選』なども現在まで読まれているアンソロジーの傑作です。堀口大學『月下の一群』上田敏『海潮集』などで初めて西洋詩に触れた方も多いのではないでしょうか?
丸谷才一さんの言葉に「詩は詞華集で読むに限る、駄作や凡作を読まずに済むので時間を浪費せずに詩を楽しむことができる」という文章があります(『日本文学史早わかり』)。? 実際のところ『子規全集』『一茶全集』等を購入して、全句を読んでいるのは現在研究者ぐらいではないでしょうか?現代の作家では、例えば原石鼎の句集はその作品を約千句ほど読むことが出来るのですが、実は『石鼎全句集』では約七千七百句ほどの句が入っています。つまり句集だけしか読んでいないと、実はその全体の七分の一も読んだことにならないのです。もう一例を挙げると、日本人なら二、三句は暗誦出来そうは人気俳人の種田山頭火の作品は実は一万句を超えていて、辞書のような大きさの全句集を購入しなければ、実は全作品を読むことは出来ないのです。
丸谷才一さんではないですが、詩は詞華集に限ると言う気がしてこないでしょうか?
2.俳句におけるアンソロジーとは
現在何が問題か?ということが本題であるので、連歌、俳諧の芭蕉以降や明治の『新俳句』『春夏秋冬』等の子規時代周辺は今回話題から省き、昭和以降の俳句アンソロジーについて考えてみます。大きくわけて俳句のアンソロジーは三種類あります。
a.作品がメインであるもの。
b.鑑賞がメインであるもの。
c.歳時記、季寄の類。
歳時記はまた別ものと考えるとすると、入集させる顔触れの違い以外では、作品と鑑賞の比重の違いが、各俳句アンソロジーの個性であると言って良いでしょう。
具体的な例を挙げますと、a.作品がメインであるものについては、平井照敏『現代の俳句』立風書房『現代俳句集成』立風書房『女流俳句集成』北溟社『現代俳句コレクション』等を挙げることが出来ます。b.鑑賞がメインであるものについては山本健吉『現代俳句』が圧倒的に有名でしょう。川名大『現代俳句』高浜虚子『進むべき俳句の道』柴田宵曲『古句を観る』新書館の『現代俳句の101』『ホトトギスの俳人101』などのシリーズも入手しやすい俳句アンソロジーと呼べるでしょう。
a.作品がメインであるものに関しては、引用句が多く、作品のみをたくさん楽しめるという利点がある反面、自分の読解力を超えている作品については、どうしても読み飛ばしてしまいがちです。
b.鑑賞がメインであるものは、著者の鑑賞により、新たな発見がある半面、強い先入観を植え付けられる可能性があります。例を挙げると、山本健吉の『現代俳句』は今読んでも名文であると強く感じますが、波郷や素十の高評価とは対照的に、池内たけし、野村泊月、田中王城、鈴鹿野風呂等を読むに堪えぬと切り捨てるようなところがあります。強い先入観は読み手の自由を奪いかねない不安があると言えるでしょう。
3.俳人の価値は変動する
アンソロジーを読むことで何が見えてくるのか考えてみたいと思います。その一つとして、俳人の価値は死後大きく変動すると言う例を挙げます。
河出書房から2016年に刊行された『日本文学全集29 詩歌』に注目したいと思います。このアンソロジーは一冊に現代詩、短歌、俳句が収録されていて、俳句は小澤實さんが担当されています。一人の作家につき五句づつ作品が引用されていて、各句に四行ほどの鑑賞、及び解説文が付いています。このアンソロジーがユニークであるのは、収録作家の一人目が井上井月だと言うことです。通常は、子規、または虚子、鳴雪辺りから始まる場合が多く、現代俳句アンソロジーの一人目の作家として井上井月から始まる本は初めてではないでしょうか?
井上井月という伊那の乞食俳人と呼ばれた俳人の作品は、下島空谷による私家版として大正15年に『井月の句集』昭和5年に『漂泊の俳人 井月全集』が刊行さました。しかしこれらは広くは流通せず、一部の俳人や、種田山頭火、芥川龍之介等に熱心なファンがいるのみでした。伊那市には井月顕正会という団体があり、井月の研究、顕正を根強くするうちに、1992年か蝸牛俳句文庫にて春日愚楽子著『井上井月』が刊行されました。これで一般の人の手に入る値段(井月全集は古書店で高値で取引されていました)で井月の句が300句も手軽に読めるようになりました。さらに2003年『井月俳句総覧』が刊行されたことによって井月の句をほぼ全句読むことが出来るようになりました。そして大きな転換期として2011年に「ほかいびと」という井月を主人公とした映画が出ました。主役は舞踏家で俳優の田中泯さん。そしてついに2012年、岩波文庫にて復本一郎著『井月句集』が刊行され、2013.3 角川「俳句」にて「いま、井月がらおもしろい!」という井月特集が組まれました。
簡単に言うと、ブームが来たわけです。そして今回2016年に出た俳句アンソロジーに入集することになりました。井月が入集出来た隠れた幸運としては、選者が小澤實さんという方であったということも付け加えておきます。おそらく小澤實さんはブームに乗ったわけではなく、信州に縁の深い方ですし、連句の師の関係からも、井月に理解があり、評価した部分が強いかと思います。御本人に直接お聞きしたわけではないので、この部分は僕の想像となります。
大変長くなりましたが、何が言いたいかと言うと、作家の価値は大きく変動する、と言うことです。さまざまなアンソロジーを集めると、埋もれてしまった作家、新たに読まれ始めた作家と、作家の価値が大きく変動してゆくことに気が付きます。何十年も放ったらかしであった作家に急に注目が集まることもあれば、今日大変高い評価を受けた作家が来年にはもうわからない、というような話もあります。
優れた作家とみなされる作家は時代ごとに異なるので、アンソロジーは定期的に刊行されるべきだと思います。優れた編者に必要なのは、埋もれた作家、もしくは一度も脚光浴びたことのない作家を発見すること。もしくは大変人気で、権威ある作家の句を冷静に、本当に作品に価値のある人物であるのかを見定める能力です。
これから読まれる可能性のある作家としては、今から20年のうちに著作権が切れる、秋桜子、草田男、立子、夜半などが文庫によって刊行されれば、新たな読者により再評価されるのではないかと期待しています。近年、荷風や芥川が岩波文庫にてほぼ全句、気軽に読めるようになったのは喜ばしい事です。僕はこれまで『荷風全集』や『芥川龍之介全集』の俳句の巻を購入して読んでいましたが、そのような手段でしか読めないままでは、新しい読者を獲得することは出来ないままだったでしょう。
正岡子規、松瀬青々、萩原井泉水、高田蝶衣等は、大きな作家であるわりには現代読まれていないように思います。原因としてはその膨大な作品数を読むことが手強いためであると思われます。読まれていない作家というのは、まだ宝の山が残っている可能性が非常に高い作家だとも言えるはずなので、このよく知られた作家達もまた再評価される可能性が高いと思われます。
さらには、惜しまれつつも近年亡くなった、金子兜太、福田甲子雄、川崎展宏、今井杏太郎、和田吾郎、金原まさ子、もしくは一つ前の時代の巨人、飯田龍太、森澄雄等、作家の作品の価値は死後判明すると考えるならば、これらの作家が未来のアンソロジーにどのように評価され、入集していくのかを読むことは、現在の我々の楽しみであると言えるでしょう。
著作権については会場より、そのような制度に順従に従う必要はなく、行動を起こし現在読まれるべき作家がいると思うのならば作品の使用の許可を取れば良いのだ、というご意見もいただきました。現実問題として、頼まれて、絶対に使わせない、と答える作家の方が少ないと思います。しかしながら、死後五十年の時間はそれほど不便なものではなく、作家の作品が死後冷ややかに作品だけとして見えて来るのに、ちょうど良い時間でもあるのではないかと、発表後に考えましたので、ここに付け加えておきます。
何度もアンソロジーについてのお話を繰り返していますが、次にその必要性を考えていきます。
川柳の世界には、古典のアンソロジーはあるが、明治、大正、昭和の川柳を気軽に見渡せるアンソロジーが少ないように思います。『現代川柳最前線』や『現代川柳の新鋭たち』等、現在活躍する作家のアンソロジーはいくつも手に取ることは出来ます。しかしながら講談社学術文庫に『現代の俳句』『現代の短歌』は存在するのに、惜しいことに『現代の川柳』は存在しません。個人的には『川柳の群像』が便利だが、作品だけを50句ほど読むことの出来るアンソロジーが存在しないのは残念です(手に入ってないだけで実は該当するようなものがあればすみません)。川柳の作品を読みたい時は国会図書館に行き、作家別(全十五冊)の構造社『川柳全集』を参考にすることが多いです。しかしながら、古本で買うには高値であることと、国会図書館に行かないと読むことが出来ないので、身近なアンソロジーとは呼べないものでしょう。
このような状態があと50年ほど経つと、大正、昭和の川柳も専門作家だけが知る古典に近いものとなってしまうのではないでしょうか。
俳句でも短歌でも全く同じ問題があり、ある程度みんなが知っている、共有している作品が少なくなります。つまり、句を評する時に、類句である、古い(先例がある)、新しい(先例がない)という評が通用しなくなります。お互いに満足のいく評が出来なくなれば、句会は虚しいものとなるでしょう。
まとめ
作品メインの名アンソロジー平井照敏『現代の俳句』の続編に値するようなものが25年間も刊行されてないことに驚きと寂しさを感じます。鑑賞メインの名アンソロジー山本健吉『現代俳句』は昭和26年に刊行され、今でも愛読され続けています。それは素晴らしいことであると同時に、それに続く名鑑賞本の不在を突きつけられているようでもあります。
これらの続篇のようなものを編むことが、次の時代のために、やり甲斐のある仕事ではないでしょうか?若手を取り扱ったアンソロジーであるとか、現役に焦点を当てたもの、もしくは俳句史の復習を目的としたものなど、貴重で、興味深いアンソロジーは世にたくさん刊行されています。しかしながら、古典と現在を結ぶようなアンソロジーはやはり、不在であると言って良いのではないでしょうか?
アンソロジーの目的の一つに、様々な俳句があることを学ぶことによって「俳句はこうあるべき」という固定概念を持たないたようにすることを挙げておきます。「俳句はこうあるべき、俳句はこういうものだ」と言う考えが俳句を不自由に、小さくしてしまうと考えます。俳句が真に自由であるためには、紅葉、碧梧桐、東洋城、又は月並と切り捨てられた旧派の俳人達、自由律や新興俳句、それらの全ての俳句の歴史を捨て去らない方が良いと考えます。消えて行ったものもまた貴重な財産です。
たくさんの俳句が生まれては消えてゆくように、たくさんのアンソロジーも又生まれては消えてゆきます。今回の発表のために三十冊ほどのアンソロジーを読んできましたが、うち二十冊ほどは我が家にあるアンソロジーです。多くのアンソロジーが生まれては消えていきますが、それでも出し続けるべきだと思います。名句がほんの一握り、たまたま奇蹟的に残るように、ほんの一握りの良きアンソロジーが生まれる事が、俳句の未来への財産になると思います。
結論としては、平井照敏『現代の俳句』や山本健吉『現代俳句』の続編と呼べるようなものが存在しないことです。そのことら現代の俳句の大きな課題と考えます。
<関根千方レポート①>
一人目は、古志の西村麒麟さんによる、アンソロジーについての話でした。アンソロジーには「作品中心のもの」と「鑑賞が中心のもの」とがあり、前者では平井照敏の『現代の俳句』(一九七七年刊、一九九三年に講談社学芸文庫に入る)、後者では山本健吉『現代俳句』(一九五一、五二年刊行、一九九〇年に角川選書に入る)以降、ほぼ四半世紀、これに匹敵するアンソロジーが出ていないと麒麟さんは指摘します。
アンソロジーがないことがなぜ問題なのかというと、身近なアンソロジーがないと、誰もが知っている句が少なくなる。そうすると、俳句の新しさや古さを判断することもできなくなり、類句かどうかもわかりづらくなる。出版不況で本屋も減っており、一般読者が手軽に俳句を読むこともできなくなってしまうというのです。
もちろん、アンソロジーだけ読むことにも問題はあると麒麟さんはいいます。作品中心のアンソロジーは、俳句がたくさん読めるのはいいですが、読者の読解力を超えるものは読み飛ばされてしまう欠点がある。また鑑賞が中心のアンソロジーは、筆者の好き嫌いによる先入観を植えつけられてしまうという欠点がある。しかし、丸谷才一が「詩は詩歌集で読むに限る。駄作や凡作を読まなくて済むから時間を浪費せずにすむ」というように、一般読者が膨大な句を句集で読むには、やはり無理があります。
さらに、麒麟さんの話は、俳人の評価は時代やブームなどで大きく変動することも指摘していて、これから新しいアンソロジーが編まれるとしたら、どんな人が入り、どんな句が入るのか、それを想像するだけでも楽しいと述べていました。これは、同時代の誰よりも俳句を多く読んでいる麒麟さんらしい意見です。
そこで気になるのは、なぜ今誰もが手軽に読める、時代を代表するようなアンソロジーが出ないのか、という問題です。
出版社は、販売数の見込めるもの以外は作りづらくなっています。つまり、売れる見込みがたてづらいものは、後回しになりやすいのです。大結社の代表や、俳人協会や現代俳句協会の中心にいる人であれば、販売数が見込みやすい。しかし、アンソロジーはその性質から、横断的で且つ綜合的なものです。だから出版社の編集者には固定客が見えづらい。もちろん買う側の問題もあるでしょう。所属結社の系譜と関連する人の俳句しか読まなかったり、好きな作家のものしか読まなかったりする。こうしてアンソロジーが力を失っていく過程と、俳句が批評性を失っていく過程とが並行してくるのではないでしょうか。
考えてみれば、それは俳句のアンソロジーに限りません。日本人なら誰もが知っていて、ほとんどの人が読んでいる国民的な作家はもういません。文芸の世界全体が、タコツボ的な個人ファン市場の集合になりつつあります。今や漫画やゲームも同じです。俳句の場合は結社があるので不思議に感じませんが、商業誌よりも小説や漫画は今や同人誌的なコミュニティ市場のほうが、力も勢いもあります。
むしろ、このようなモザイク的な市場で可能な批評とは、どんなものなのかを考えなければならないのかもしれません。麒麟さんは、インターネット上で「きりんの部屋」というアンソロジーを連載していますが、もしかすると、現在における一つの新しい形を実践しているという自負をもって、このような話をしたのかもしれません。
