10月19日、第36回きごさい+がズームで開催されました。
麗しき島を詠む
――「台北俳句会」と台湾の季語について――
李 哲宇
1. はじめに
1.1. 「台湾文学」と「日本文学」の狭間
戦後の台湾で白色テロ時代に、中国語以外の言語は禁止されていた。その中で、日本語で創作し続けている日本語世代がいる。しかし、次の世代との間に言葉の障壁により、様々な悲しみが生まれた。また、この世代間の断層が原因で、これらの韻文は「台湾文学」として見なされてこなかった。その上、外地人の作品であるため、「日本文学」ではなく、「日本語文芸」として位置付けられてきている。
様々な問題が起きている中、「台北俳句会」の主宰者である黄霊芝は言語を道具として扱い、国籍より文芸に焦点を当てるべきだと主張した。すなわち、ナショナルな連帯の日本語世代がいれば、黄霊芝のようにそれを超越しようとする人もいる。
1.2. 戦後の日台俳壇の交流について
従来の研究は戦後の台湾俳壇について、1970年に誕生した「台北俳句会」を中心として形成されたと指摘されており、終戦後から「台北俳句会」が誕生するまでの間は「空白期」か「伏流期」と呼ばれる(鳥羽田、2016;磯田、2018)。黄霊芝はこの間に『雲母』に投句したことを明言しており、言わばこの期間に日本俳壇と繋がった個人が存在した可能性が高いと考えられる。
また、「台北俳句会」の結成は「七彩俳句会」と主宰者の東早苗と関わっている。1980年に加藤山椒魚によって「春燈台北句会」が結成され、現在も毎月句会が開かれている。さらに、黄霊芝の著作『台湾俳句歳時記』(2003)は「馬酔木燕巣会」と主宰者の羽田岳水と関わっている。これらの日台俳壇の関係性から、日台俳壇の間では密接な関係があると示唆されている。
2. 「台北俳句会」について
2.1. 「台北俳句会」の歴史
「台北俳句会」の歴史は「創成期」、「発展期」、「高原期」、「成熟期」、「転換期」と五つの時期に分けられる(磯田、2017)。
また、「台北俳句会」は次の特徴を持っている(黄、2003)。①師事の問題。②会員構成の複雑さ。③多種多様な参加動機。④結社参加の選択肢の欠如。⑤様々な文事に携わる普遍性と趣味としての位置づけ。⑥会員に対する独立思考の推奨。⑦「台北俳句会」の今後の行方。
「創成期」には、各俳人の個性が作品に反映されていた。「発展期」には、「春燈台北句会」との少し関わりが窺えるほかにも、俳論の掲載や、自由律俳句や多言語での表現といった黄霊芝による俳句の試みが見られる。「成熟期」には、羽田岳水の賛助出詠と黄霊芝の『燕巣』で「台湾歳時記」の連載で両句会の協働関係が目立つ。「高原期」には、黄霊芝が有季定型の作法に戻り、連作を詠む特徴が見られる。「転換期」には、逝去した黄霊芝の代わりに、台湾季語を詠むことは句会運営の方針となり、黄霊芝の意思を受け継ぐ形となった 。
2.2. 日本俳壇との関わりから見る「台北俳句会」の発展
1970年に東早苗の訪台をきっかけに「台北俳句会」は「七彩台北支部」として誕生した。しかし、この関係は一年余りで破綻し、「台北俳句会」は独立した句会となった。両句会の間での破綻は、金銭上のトラブル(磯田、2017)や、主宰者の優位性を維持するために日本語世代への配慮が足りないこと(下岡、2019)などが原因であった。
ただし、黄霊芝と「台北俳句会」はこれによって日本俳壇と絶縁となっていない。例えば、『台北俳句会五十五周年記念集』には、東早苗、羽田岳水、福島せいぎ、吉村馬洗、坊城中子、稲畑広太郎、金子兜太、草間時彦、加藤耕子、園部雨汀、星野高士、長谷川櫂、石寒太等の俳人の訪台が確認できる。
「台北俳句会」と「日本伝統俳句協会」との合同句会では、坊城中子が台湾人が有季定型の作法を守るかどうかに対する危惧と戦前世代への配慮が見受けられる。実際に、国籍が翻弄され、アイデンティティが揺らいでいた「台北俳句会」の会員もいた。しかし、黄霊芝は文芸の主体性を強調し、多元的創作表現の重要性について語った。
2.3. 黄霊芝の芸術観と後継者の不要
芸術至上主義的な考え方の持つ(岡崎、2004)黄霊芝にとって、詩は最も自らの芸術観を表現できる文芸だと考えられる(黄、1979)。なお、2002年にNHKが取材しに来た際、日台間の政治問題に触れることで黄霊芝の不満を招いたため、「台北俳句会」の会報で文芸の主体性を改めて強調した。
また、黄霊芝は2003年に「台北俳句会」は「亡びを前提とした会」と語っており、2010年には全国日本語俳句コンテストへの協力に賛同しながらも、改めて後継者の不要を言及した。黄霊芝が求めているのは後継者ではなく、共に文芸を語り合える相手であろう。
しかし、「台北俳句会」には自らの歴史や記憶を理解してもらう日本語世代がいる。また、俳句会の存続などの問題も浮上してきている。そのため、「台北俳句会」は学生や地方公共団体とのイベントに取り組み、あるいはそれらを後援する姿勢を取っている。
3. 台湾季語について
3.1. 「馬酔木燕巣会」との協働
台湾俳壇史上の二冊目の歳時記である『台湾俳句歳時記』は、黄霊芝が1989年から1998年まで『燕巣』で「台湾歳時記」を題にして連載された内容を基づいた出版物である。編纂する経緯について、台湾ゆかりの羽田岳水が黄霊芝に協力を求めたという(岡崎、2004)。一時的な協働関係が成立したが、『台湾俳句歳時記』は最終的に黄霊芝の単著作品となった。この関係性について、羽田岳水と黄霊芝がそれぞれの作品における表現の主体性に対する認識の食い違いから生じた問題だと指摘されている(磯田、2018、阮、2020)。なお、『燕巣』での連載が終わった後、「台北俳句会」の例会では、のちに台湾季語となる兼題を引き続き出されていた。
3.2. 『台湾俳句歳時記』の特徴と独創性
「台湾歳時記」を連載し始める前に、黄霊芝は既に「日本趣味」を批判する文章が残している。また、黄霊芝は台湾季語の創出、を美の追求と位置付けている。
その上で、『台湾俳句歳時記』にはいくつの独自性がある。一つ目は、春夏秋冬を用いずに、暖かい頃、暑い頃、涼しい頃、寒い頃という斬新な分類法を使用したこと。二つ目は、台湾語を表現する振り仮名である。例えば、月来香(グエライヒョン)。三つ目は政治詠である。二二八(リイリイパッ) や光復節(クヮンフウチエ、(中))などが挙げられる。
3.3. 台湾季語の諸問題と台湾季語の現在
黄霊芝によれば、『台湾俳句歳時記』には次のような問題点がある。①寿命と歳時記の編纂期間。②資格の有無。③月刊連載のペース。④季の認定。⑤季語との区分範囲とその方法。⑥台湾における様々地理、民族や言語の問題。⑦地方による同じ言語の違い。⑧台湾語における読み言葉と話し言葉の違い。⑨振り仮名で台湾語表記の困難さ。⑩学問による季語の題名の違い。⑪「日本趣味」と「台湾趣味」の違い。⑫著者のために書くか読者のために書くかの問題。⑬先行研究の欠如。⑭完璧主義。
さらに、台湾季語や台湾俳人が詠む俳句が真に価値を発揮するためには、詠み手に理解力が求められている。
4. おわりに
4.1. 台湾俳壇のビジョン
「台北俳句会」の存続に賛成する理由は三つある。その一、文人のサロンとしてのトポス。その二、歴史を追体験できる空間の保有。その三、次世代の文芸家を育てるための場。
4.2. 日本俳壇の新たな可能性
作風が異なる俳人の興味を引き出す外地の俳壇から、現代日本俳壇の知識を学び合い、互いに刺激し合う可能性がある。
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講演後、句会が開催されました。
李哲宇 選
【特選】
台灣藍鵲秋の光を曳いて飛ぶ 長谷川櫂
【入選】
戦時下の台湾語る秋灯し 鈴木美江子
海といふ国境深し秋の空 高橋慧
なつかしき我家への道金針花 飛岡光枝
台北の朋も愛でゐる今日の月 長谷川冬虹
言の葉のさきはふ島や小鳥来る 趙栄順
紹興酒おくび香し秋の夜 越智淳子
荻の声近くて遠き国なりき 高橋慧
長き夜や台湾季語を繙けば 葛西美津子
青楓フォルモサの風聴きにけり 村井好子
ボロボロになりし歳時記秋惜しむ 金澤道子
飛岡光枝 選
【特選】
藍鵲か睡蓮の花か水浴びす 長谷川櫂
深けるほど灯りうねるや夏夜市 谷口正人
青楓フォルモサの風聴きにけり 村井好子
流星の闇へ投げ出す頭かな 藤原智子
【入選】
渡らざる鴎と我と遊びをり イーブン美奈子
昆劇の恋の花咲く月夜かな 西川遊歩
秋灯の星のごとくに夜市かな 趙栄順
台北の朋も愛でゐる今日の月 長谷川冬虹
一本の真白き氷柱黄霊芝 三玉一郎
幻の茶がなるといふ霧の山 趙栄順
茶杯の香ゆつくり聞くや星月夜 村井好子
彗星の見つからぬまま虫の闇 金澤道子
黄さんの田うなぎ料理皿の上 西川遊歩
飛び交うて台灣藍鵲けさの秋 長谷川櫂
長谷川櫂 選
【特選】
洟垂将軍霊芝少年大あばれ 飛岡光枝
昆劇の恋の花咲く月夜かな 西川遊歩
一本の真白き氷柱黄霊芝 三玉一郎
惜秋や夜毎聴き入るヨーヨー・マ 江藤さち
台湾は台湾なるぞビール干す 長谷川冬虹
【入選】
マオタイ酒きこしめしたかちんちろりん 趙栄順
夜空にも湧く大いなる鰯雲 高橋慧
果たてまで檸檬かつての黍の畑 橘まゆみ
月今宵ダン・ホワン・スーと茉莉花茶 村山恭子
息白しシェンドウジャンを啜り食ふ 村山恭子
茶杯の香ゆつくり聞くや星月夜 村井好子
紹興酒おくび香し秋の夜 越智淳子
大いなる秋月しづか街外れ 越智淳子
黄さんの田うなぎ料理皿の上 西川遊歩
缶の底の手揉みの紅茶秋深し 村井好子
流星の闇へ投げ出す頭かな 藤原智子