「HAIKU+」④マブソン青眼
4「今、俳句で表現の自由が問題である」 マブソン青眼
第二次世界大戦以後、日本の俳人の多くは「檻」の中に閉じ込められていると、私は思う。その状況を象徴する一つの出来事を取り上げよう。2018年2月25日、長野県上田市にある「無言館」近くに「俳句弾圧不忘の碑」が除幕され、隣接する「檻の俳句館」が開館された。筆頭呼びかけ人は3名。金子兜太、窪島誠一郎(作家、「無言館」館主)と私・マブソン青眼。一般呼びかけ人は66名。世界的な学者、文化人等も含まれているが、たいてい日本の著名な俳人ほぼ全員が名を連ねている(https://showahaiku.exblog.jp/26417535/ を参照)。ただ、高浜虚子のご子孫を含むホトトギス系の先生方は、なぜか、依頼を送ったにも関わらず、ご返事が返って来なかったのである。
兜太先生は除幕式に必ず出席すると、最後まで言って頂いた。2月上旬のご入院の際、ご子息から「無理かもしれない」との連絡があったが、それ以前に、碑の会の事務局として私は日本のすべての俳句総合誌や俳句団体に「金子先生は出席する」と記した招待状を送っていた。ご存知の通り、兜太師は惜しくも2月20日に亡くなられた。たった5日間、除幕式に間に合わなかった。しかし(皮肉にも、恩師の他界の影響で?)国内外の一般のマスコミ数十社も除幕式の取材に来て頂いた。全国版の東京新聞、中日新聞、朝日新聞、日経、共同通信(全国の地方紙)、AERA、信濃毎日新聞、フランスの「ルモンド」紙まで、写真付記事でこの除幕式を、金子兜太の反戦の遺志と関連付けて大きく取り上げて頂いた。しかし、日本の俳句総合誌は一誌も取材に来なかった。取り上げてもいない。
兜太自身が何度も書いている通り、当時、反戦的もしくは反体制と思われる作品を作ったとして逮捕された俳人の横には、逆に軍部と能動的に協力していた多くの俳人もいた。そして、高浜虚子についていえば、戦時中ずっと情報局の役員として報酬を貰い続け、「日本文学報国会俳句部長」を務めていたのは事実である。そんな軍部によって沈黙を余儀なくされた若き俳人達は、当時、日本の俳壇の最先端にあった。戦後、その途切れた発展を取り戻そうとしたのは、まさに兜太だったといえよう。しかし、俳壇はすでに戦中に強化された虚子派の影響によって保守的な文芸に変わっていた。事実、桑原武夫が「第二芸術論」で主に批判したのは、虚子派の封建的な創作姿勢であった。しかし、それを真剣に受け止め、きちんと対抗しようとしたのは、案外、批判されていなかった、最も進歩的な「新俳句人連盟」や新興俳句の名残の俳人達だけである。例えば「創る自分」による「社会性俳句」のあるべき態度を論理化したのも、兜太である。しかし、そんな開放的な、自由な現代俳句をすすめようとする俳人や俳句総合誌は1960年代以降減り続き、3.11以後はさらに減ったといえよう。日本の俳壇は自ずと、戦時中に作った「檻」の中へと戻っているのではないか。兜太の他界以後の日本の俳壇は恐ろしいほど、閉鎖的・排他的なものになっていくのではないかと、私は深く危惧しているのだ。
<関根千方レポート④>
最後は、マブソン青眼さんによる「表現の自由」についての話です。
マブソンさんは交換留学で宇都宮高校に来て、図書館で芭蕉の英訳を読み、短い言葉なのに自由に物事が詠める俳句に魅了されます。帰国後、パリ大学で日本文学を学び、長野県の国際交流委員となります。仕事の傍ら一茶を研究。そこで、金子兜太さんと出会います。
西欧人から見れば、季語の便利さはわかっていても、例えば〈雪解けて村いっぱいの子どもかな〉という句の「雪解け」と「村いっぱいの子ども」という、本来結びつかないものの取り合わせには驚嘆するそうです。
転機は東日本大震災でした。福島原発事故が起こり、フランス大使館から、いつ蒸気爆発が起きてもおかしくない状況なので、早くフランスに帰ってくださいといわれます。妻子のチケットも用意されていたそうです。帰国すべきかどうか悩んでいるとき、KADOKAWAの雑誌「俳句」から被災地へのエールを送る俳句を依頼されます。マブソンさんはそこで、〈児の頬に遅春のなみだ放射能と〉という俳句を詠みました。
その後、マブソンさんは原発問題で感じたことを句に詠み、SNSなどでも脱原発に関するコメントを発信していきます。すると、俳句総合誌から月一回程度あった原稿依頼はほぼ途絶え、二年のはずの連載も一年半で終了となります。マブソンさんは自嘲的に、自分はそこからクールジャパンを讃える外国人ではなくなってしまったんだといいます。
そこからマブソンさんは「表現の自由」ということを考えるようになり、戦時中、治安維持法の下で起こった俳句弾圧事件について調べていきます。それは京大俳句のメンバーが検挙された事件を始め、戦争批判をおこなった俳人が次々と検挙、拘束され、十三人が懲役刑を受けた事件です。
嶋田青峰は、この事件の犠牲となった俳人の一人です。この碑にも句が刻まれているそうです。元々ホトトギスの虚子門下の俳人でしたが(昭和五年除名)、昭和初期から機関誌「土上」(どじょう)の主宰として、新興俳句運動の中心となっていきます。金子兜太さんは当時、この『土上』に属していて、青峰の指導を受けていたそうです。昭和十六年「『土上』に進歩的思想あり」という理由で検挙。留置所で肺結核を再発し、喀血。「土上」は廃刊。釈放から三年後、昭和十九年に青峰は亡くなります。
マブソンさんは長野県上田市に「俳句弾圧不忘の碑」の建立計画を進めます。金子兜太さんが、この碑の建立の筆頭呼びかけ人となり、国家が表現の自由を奪うことの恐ろしさを一緒に訴えてきました。碑の文字は兜太さんが揮毫。兜太さんは「除幕式には必ずいく」といっていたそうですが、残念ながら二月二〇日に亡くなってしまいました。除幕式はその五日後でした。
不思議なことに、俳句総合誌は一社も取材に来なかったそうです。フランスの新聞「ル・モンド」が取材に来ているのに。マブソンさんは今も同様に、言論の自由が奪われているといいます。しかも、戦時下のように上からの弾圧ではなく、下からの弾圧、つまり自分たちが自分で自由を奪っているのではないかと。
マブソンさんは、碑の隣に整備した「檻の俳句館」をぜひ見に来てほしいと訴えます。事件にあった俳人の作品を紹介するパネルが檻を付けて飾られているのだそうで、見る側の人が檻の内側にいるように思えてくる仕掛けになっているのだそうです。
最後のマブソンさんの話を聞いて、四人とも角度の違いはあれ、自由を奪う制度がどこにあるか、ということを考えさせられる話だったように思えてきました。麒麟さんは「市場原理」、鴇田さんは「教育論理」、阪西さんは「小主観」、そして、マブソンさんは「ファシズム」。
おそらく我々は、見えない言葉の監獄にいるのでしょう。俳句は批評性を持ちうるとしたら、もちろん詩もそうですが、いかにしてこの見えない言葉の監獄から出るか、その外部性をとりもどすかです。言葉の監獄の中にいるときは、そこが監獄であることに気づきません。例えば「時代精神」というものも、事後的に見れば見えてくるでしょうが、そのなかにいるときにはなかなか見えるものではありません。批評とは、言葉の監獄の外部を垣間見せるものです。我々自身を縛っている何かを感知させることを批評とするなら、この四人の作家はそれぞれの立場から、それを実践しようとしていることがわかります。
俳句に批評を取り戻す。なかなか容易なことはないかもしれませんが、今回のイベントは未来に向けて希望の持てるものになったのではないでしょうか。このイベントの続きが期待されます。