HAIKU+井上康明さん「俳句の魅力―飯田蛇笏より―」
現在ご活躍中の俳人・俳句研究者をお迎えして、俳句の未来を考えるHAIKU+。第6回は、俳誌「郭公」主宰の井上康明さんをお迎えして、11月20日にオンラインで開催されました。井上康明さんから当日のご講演の概要をいただきましたのでご覧ください。
俳句の魅力―飯田蛇笏よりー 井上康明
一 俳句の未来
「俳句の未来」をテーマにお話しできればと思う。俳句は、十七音と有季、季題季語を用いるという約束があり、しかも中世以来の歴史を負う文芸である。その制限のなかでどのように表現するかが問われ、作者はそれぞれの想像力によって独自な表現を求めていく。
私は、二十代の半ばに初めて俳句会へ参加、徐々にその俳句という不思議な文芸形式に親しんでいった。そのきっかけになったのは、飯田蛇笏の俳句であった。同年代の蛇笏の俳句を詠み、若々しく情熱的であることに惹かれて、俳句に興味関心を抱くようになった。
今回、その飯田蛇笏について考えることによって、未来への俳句について、何らかのヒントを受け取れるのではないかと思ったのである。その俳句人生の古さと新しさについて考えてみようと思う。
二 飯田蛇笏の生涯
まず、飯田蛇笏という人について、概略を述べることにする。
飯田蛇笏は、明治十八年四月二十六日、山梨県東八代郡五成村(ごせいむら)(現笛吹市境川町小黒坂(こぐろさか))に飯田家の長男として生まれた。本名は武治(たけはる)。早稲田大学に学び、中途で帰郷して家を継ぐ。大正年代、高濱虚子選の「ホトトギス」雑詠欄において活躍。その頃創刊された俳誌「キララ」の雑詠欄の選者となり、誌名を「雲母」とし主宰する。昭和七年、第一句集『山廬集』を四十七歳で刊行。昭和の戦争に前後して、両親、長男、次男、三男を、病没、戦死により亡くす。昭和三十七年十月三日、自宅で死去、行年七十七歳。飯田家は、四男龍太が継ぎ、「雲母」を継承主宰する。龍太の編集により蛇笏の第九句集『椿花集』(昭和四十一年)が刊行される。
蛇笏は、子供の頃から俳句に親しみ、生涯俳句を作り続けた俳人であった。有季定型の伝統俳句を詠み続けた蛇笏の根っこはどのようなものだったのか。
三 蛇笏の生涯の俳句
蛇笏の生涯の俳句を幾つかの句によって辿ることとする。
芋の露連山影を正うす 大正三年
これは蛇笏の代表句であり、唯一、文学碑となった作品である。碑は、甲府市芸術の森公園のなかにある。里芋の畠の葉の上に露があり、これが近景。遠景には山が連なり、その姿が一瞬、身を正す。山国の秋の爽やかな大気を遠近の構図によって表す。芋、露、連山、影、正しくすと多くの要素を、「芋の露」で切るという構成によって成立させている。二十九歳の作。
ある夜月に富士大形の寒さかな 大正三年
「ある夜富士に」という語り出しは、蛇笏が、大学時代、義太夫などに親しんだことを思い出す。
なつやせや死なでさらへる鏡山 大正四年
前書きに「一日山廬を出て偶々旧知某老妓に会す」とある。老妓が「鏡山故郷の錦絵」という文楽等で演じられる一節を三味線で弾く。「死なで」に味わい。
死骸や秋風かよふ鼻の穴 昭和二年
冷徹な目で亡骸を見つめ、秋風が蕭々と吹く。この句には長々と前書きがある。「仲秋某日下僕高光の老母が終焉に逢ふ。風蕭々と柴垣を吹き古屏風のかげに二女袖をしぼる」飯田家には、代々飯田家の仕事を担う家があった。古くから長く飯田家の家周りの仕事を担っていた。「下僕」とは率直な言い方だが、蛇笏には主人としての役割を果たす責任があった。一統を束ね、その上に立つ立場であったのだ。四十二歳の作。
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 昭和八年
軒に釣り忘れられた風鈴が、音を立てて鳴る。
草川のそよりともせぬ曼珠沙華 昭和十二年
ぺかぺかと午後の日輪常山木咲く 昭和十六年
次男が病没した年の秋の作。擬態語が蛇笏の異様な高揚を示す。常山木の花は、山麓などで、臙脂と白の混ざり合う地味な芳香のある花を開く。
古茶の木ちるさかりとてあらざりき 昭和十八年
茶の花は、秋の半ばから冬の初めにかけて、葉群の奥に小さな白い花を咲かせ散り継いでいく。この句は、加藤楸邨が、「最も賞味する一句である」と語ったという作。楸邨は、昭和二十三年冬蛇笏を訪れた。その時のことを龍太が書いている。龍太によると楸邨はこの句を挙げ、「一見地味な句だが、意外にけんらんとした詩心を秘め、自然観照の極を示す、いわば、鍛えあげた末の老艶の花を垣間見るような作ではないか」と語ったという。
ぱつぱつと紅梅老樹花咲けり 昭和二十二年
冬といふもの流れつぐ深山川 昭和二十八年
冬川に出て何を見る人の妻 昭和三十年
寒雁のつぶらかな声地におちず 昭和三十三年
靖国神社から句を乞はれて
御魂祭折から月の上るなり 昭和三十六年
亡くなる前年、長男、三男の魂が祀られる靖国神社から盂蘭盆会に句を求められた作。「折から月の」という素気ない表現に蛇笏の万感が籠められている。
山中の蛍を呼びて知己となす 同
亡くなる前年、童心が弾む。芥川龍之介死去の際の芥川への追悼句「たましひのたとへば秋の螢かな」も思い出す。螢のひとつは、芥川かもしれない。
いち早く日暮るる蟬の鳴きにけり 昭和三十七年
死の直前に詠まれた作、「日暮るる蟬」は、蜩を思う。蜩は生き急ぐかのように鳴き募る。
誰彼もあらず一天自尊の秋 昭和三十七年
辞世とされる句。龍太によって没後の遺句集『椿花集』の最後に置かれたことによって辞世とされた。破調、字余りの作。生きとし生けるものすべての命が尊い、この秋天の下で、と詠う。飽くまで人生の途上の姿勢を崩さなかったことを示す句だろう。
四 俳諧我観
飯田蛇笏は、大正二年、河東碧梧桐等の新傾向俳句に反駁し、「季題趣味」と「十七字韻」は俳句に不可欠と、地元新聞に「俳諧我観」という論を連載した。
大正元年十月二十七日、甲府市瑞泉寺において「峡中俳壇秋季大会」が開かれ、荻原井泉水、河東碧梧桐が選者として招かれ、蛇笏もこの大会に参加、これをきっかけに、翌年大正二年三月十一日から五月一日にかけ、「山梨毎日新聞」に十二回に亘って、新傾向に反駁する論を展開した。
蛇笏はまず何々庵某宗匠などと名乗る月並を否定。
人と語り、流れる雲を眺め、囀る鳥の声を聴き、心の奥に美的享楽の芽を生む「我」を認める。そして「我」は宇宙、人生に対して観照的態度をもって対し、芭蕉以来の季題趣味と結びついて俳句となるとする。
季題趣味によってこそ、「我」の刹那の感想が流露し、そこに個性の発露が見られ、芸術の威力を感じることが出来るだろう、と語る。
蛇笏は、「吾人は常に季題趣味を心に養ひ山川草木に対し、人畜鳥魚に対しー自然界の森羅万象、洞察を逞ふし実感を延べ心裡に深く印象せしめる。(略)心の奥底に潜在した「季題趣味」が意識域を領せんとするその時、我が俳句は成作せらるるのである」と述べ、「即ち季題趣味を離れて其処に俳句の存在は認められないのである」と断言する。さらに虚子の「平明にしてかつ余韻ある俳句」に共鳴し、「季題趣味」の要素を包含し、特別な一定な形式と約束を有する十七字韻でなければならない、と主張する。
五 飯田蛇笏「霊的に表現されんとする俳句」
「ホトトギス」大正七年五月号に蛇笏は、「霊的に表現されんとする俳句」を発表、その俳句観を述べた。
我等は我等の世界に生きて居る上に於いては、強く現実を観、之れを深く味い、根本的に生存の美を挙げたい信念から常に最善の世界を形作るべき懸命なる努力を持続しなければならぬ。この努力は軈(やが)て人間至上の能力の美である。此の努力が他へ及ぼす時其処に人間としての輝きが認められ、此の人間から生み出さるる文芸美術は我らが世界に置いて最も崇高な最も厳粛なものでなければならないのである。(略・以下の引用は抜粋)
初空や大悪人虚子の頭上に 虚子
雪解川名山けづる響かな 普羅
溺死ありおごそかに動く鰯雲 失名
これらは創作的態度に於いて各々作家が自然及び社会人生に対して現実そのものであるが儘に見ようとする在来の卑下なさもしい態度の外に人間至上の芸術的能力の美を社会人生に体現しようとする溌剌たる勇気ある個々の信念と努力をひそめて、偉大にして耀きある背景を具備しつつあるのを明らかに認める。かかる信念と情熱と相俟って至上芸術としての詩を俳句として認めることが出来るのである。
蛇笏は、人が懸命に生きることは素晴らしく、人間至上の美しさを示すことだと言う。そのように懸命に取り組む文学美術、芸術は崇高で厳粛なものだと語る。芸術活動が、人として最も尊い行為であることを自覚し、強い信念と情熱をもって活動することが俳句を至上芸術たらしめることになると言う。これが霊的に表現されんとする俳句であり、理想の俳句であると、蛇笏は語る。
早稲田大学時代、蛇笏は、「文庫」「新聲」といった投稿雑誌に新体詩を投稿し、小説にも手を染めていった。俳句とともに新体詩、小説を並行して創作、また自然主義の作家に親しみ、特に国木田独歩に傾倒したことを語っている。幅広い文学活動のなかから俳論は培われていったのだろう。
六 古典俳句について
飯田蛇笏は、古典俳句についてゆるやかな考えを持っていた。正岡子規が否定した月並についてもきっぱりと否定していない。例えば次のような句がある。
ありあはす山を身近かに今日の月 昭和三十六年
亡くなる前年の句、仲秋の名月にありあわせ、山がちょうどそこにあることよと詠う。周辺の山の存在を暮らしのなかに人臭く表現する。蛇笏が生涯居住した境川村には、幕末、北野道等という俳人が居た。当時甲斐の国には、越前から来た俳諧宗匠辻嵐外が居て、道等はこの嵐外の弟子「嵐外十哲」とされる俳人の一人だった。境川村から隣村へ通じる峠には、道等の句碑があり、それには「名月や有合せたる山と山」と彫られていた。蛇笏は、村ゆかりの俳人と俳句にあいさつを交わし、やがて黄泉へと旅立ったのであろう。
第一句集『山廬集』は、次の句で始まる。
もつ花におつる涙や墓まゐり 明治二十七年以前
昭和二十七年刊行の飯田蛇笏句集の自筆年譜には、この句が、九歳の時に作られた句であると語られている。蛇笏の父である宇作は、清水家から婿養子として飯田家に入った人だった。父の生家である清水家の門長屋では、旧派俳諧の句会が開かれ、蛇笏も参加していた。そんな折、蛇笏がこの句を作ると、そこに居た旧派の宗匠大須賀一山が、「もつ花に涙も落ちて墓まゐり」と添削した。しかし、後年、蛇笏は句集収録の際、そのまま収録したという。
このエピソードは、月並と言われる旧派と、蛇笏が推進する所謂新派との違いについて考えさせられる。
添削された句は、墓参りには悲しさが伴い、もつ花に思わず涙も落ちてしまうことだと、世の中の誰もが理解する通俗の常識を語る。それに対して蛇笏の句は、墓参りに思わず落とした涙の瞬間を描く。かけがえのない一度きりの一瞬を描く。その違いを際立たせるのが「や」の切字である。
七 蛇笏の芭蕉観
蛇笏は、「雲母」昭和四年一月号において「超主観的句境(イツトナクミノルクサバナ)」という一文を書いて自らと芭蕉の句について語っている。
芭蕉が自らの詩的圭角を徐々に除去していく過程について「実際に当って之を険してみる」と語る。まず貞享初年の「野ざらし紀行」について、
野ざらしを心に風のしむ身かな 芭蕉
は、「懸命の心をいささか露骨に詠わねばいられなかった」とする。やがて滑らかな詩情を醸した芭蕉の大成を物語る晩年の数句をあげるならと言って、
はる雨や蓬をのばす草のみち (元禄二)
大雪や婆ひとりすむ藪の家 (元禄四)
苣はまだ青葉ながらや茄子汁 (元禄七)
とこれらを挙げ、蛇笏は「客観に影をひそめた作者の主観的滋味」は「人心に迫る」と言う。しかし、蛇笏によれば、芭蕉のそれ以上の真骨頂は、次のような句だという。
幻住庵
旅癖や寝冷煩ふ秋の山 (元禄四)
青くてもあるべき物を唐がらし (元禄五)
秋ちかきこゝろのよるや四畳半 (元禄七)
其柳亭
秋もはやはらつく雨に月の形 (同)
昨日からちよつちよつと秋も時雨かな (同) 〈原句では、二つ目の「ちよつ」は繰り返し記号表記〉
蛇笏は、これらの句を「天地自然に融合する創作力の物我一如を示すところのもの、この醍醐味をさして俳諧境の極致と謂うべき」「其処にこそ千古を貫く俳諧至上の台を見、帰趨を爰に置くべき」とまで絶賛している。蛇笏のこの芭蕉についての判断は、芭蕉晩年の軽みへの共感、支持である。この蛇笏が認めた芭蕉の句「青くてもあるべき物を唐がらし」は、真っ赤な唐辛子を詠んで、謎解きのような味わいがあり、このひねりは、月並に通ずるようにも思われる。日常卑近な唐辛子を詠んでいるところが興深い。
「昨日からちよつちよつと秋も時雨かな」は、「秋もはやはらつく雨に月の形」の初案であり、俗語の口拍子を推敲していくところに妙味がある。時雨という伝統に連なる季語を日常軽やかな口語に取材して、より軽妙なことばの弾みとともに一句が詠まれている。その自在さに蛇笏は惹かれている。
八 蛇笏の正岡子規観
「俳句研究」昭和十五年九月号に蛇笏は「正岡子規随想―主としてその歪曲観をー」と題して子規の否定した成田蒼虬、桜井梅室、子規が言及した甲斐の近世俳人辻嵐外について、その句を挙げ、取り上げるべき点について語っている。嵐外については、
一輪の梅白きことさためけり 嵐外
十六夜の雨ながるゝや隅田川 同
など、天保俳句流の低調さは免れないが、子規も指摘するように作品にたしかなところがあり、理性、理知的な側面がおのずから流露を見せている、と言い、殊に「十六夜の」は、嵐外一代の傑作であるという。また、梅室、蒼虬については、
人もなき蚊屋に日のさす宿屋かな 梅室
蓬莱のだいだいあかき小家かな 蒼虬 〈原句では、二つ目の「だい」は繰り返し記号表記〉
について、天保的特質、地下的なもの、下情的なるもの、天保的主観味の揺曳する境地に、元禄にも天明にも存しなかった微にして妙なる独特の芸境がある、と語る、さらに子規が「野卑なる意匠と野卑なる語句」と否定した梅室の
今朝は茶をあとへまはして福わかし 梅室
などについて、一種の写実境であり、芸術圏外のものとして葬りさることは出来ないと言う。更に蛇笏は甲斐の近世末、天保俳人を引用、
はつ秋や柄杓のかろき水遣ひ 可轉
花さいて冬になりしぞ茶の畠 一斎
夕涼み生れかはらば何になる 漫々
このような句は現代の文壇人俳句に通じる魅力があると言い、新聞紙上に掲載された文人俳句を引く。
生きのびて又夏草の目にしみる 徳田秋声
都をば百里はなれて昼寝かな 海野十三
夏芝居泣いて暑さを忘れけり 岡本綺堂
蛇笏によるとこれらの文壇人俳句は、子規が否定した天保の俳諧味、元禄でも天明でもなく、天保俳壇独自の弱弱しくはかなげな芸術味と通底するという。蛇笏は、月並俳諧を検証、独自の味わいを探る。
「雲母」昭和十一年十一月号に発表した「天保俳壇に於ける一分野観」においては、天保時代の諸作品が、
現実的にして卑近なる耽美派的な人間くさいねばりを顕現する境地は、遉に時代の流れに負ふところの近代的現象であるに違ひなかったのである。
と語る。蛇笏は、天保俳諧の吟味に近代へ繋がる内容を見定めようとしている。
九 高濱虚子について
蛇笏は、高濱虚子について、
明瞭に云ふが、僕が俳句方面に於ける師なるものは高濱虚子あるのみである。(「改造社版『續俳句講座』の『明治以後俳人系譜』誤謬―主として自分に関してー」)「雲母」(昭和九年七月号)
と生涯で唯一の師であると語る。その死去に際しては、追悼文において、徳富蘇峰が芭蕉を讃えそ
生涯が「順応あるのみ」だったと語ったことを引きながら、
この順応という言辞が持つ意味は、虚子翁を論ずる場合でも、翁に近接し翁を深く知り抜いた者にとっ
ては実に適合する言辞だと私は思うのである。「高濱虚子先生を偲ぶ」(「俳句」昭和三十四年五月号)
と語っている。すべてに「順応した」と語る蛇笏の虚子観は、俳人であり、「ホトトギス」の主宰者であり、また長く伝統俳句を牽引した虚子という大いなる存在への最大の敬意の表明ではないかと思われる。
蛇笏の虚子の俳句についての鑑賞は、濃やかにして厳しい姿勢を思わせる。蛇笏の俳句鑑賞は、大正年代から始まり昭和三十三年までつづいたが、そのすべての期間で蛇笏は、高浜虚子の句を取り上げている。蛇笏の俳句生活は、虚子の俳句を鑑賞することとともにあったと言っても良い。この間、鑑賞批評も文學である、という姿勢に貫かれている。例えば、
先人も惜みし命二日灸 虚子
について、「主観的作句の深刻にして強く、ゆとりある所謂悠久性に富む句境をあらわした作」という。これは、几董の「二日灸花見る命大事なり」を踏まえて純主観的作品として一代の作の中に光を放つ句、と
評価する。しかし、次の
春風や闘志いだきて丘にたつ 虚子
については、作者の主観の露骨さを示し、喜怒哀楽の高潮を偽りなく表現するが、「二日灸」の句以上の価値はない、と指摘する。
蛇笏は、虚子の俳句に対して対峙するという姿勢で臨んでいる。
十 蛇笏と芥川龍之介
蛇笏と芥川龍之介は生涯相まみえることはなかったが、俳句について語りあう手紙によるやり取りがあった。その交流の余韻は、龍之介自裁の後の蛇笏の生涯に亘っていく。
昭和二年七月二十四日、芥川龍之介は田端の自宅で、自ら最期をとげる。その約七ヶ月前、芥川は遺書のような『梅・馬・鶯』を刊行、蛇笏にも贈られた。蛇笏は「その後の虚子、龍之介、二氏の俳句」(「雲母」昭和二年三月号)において、このなかの発句七十四句のなかから数句を鑑賞、進境を示すと評価。しかし、次の一句については、異議を唱えた。
蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな 我鬼
この句について蛇笏は、かつてこの句は、
鉄条(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな 我鬼
であったが、今回の改作によって、「調子をなだらかに落として却って失敗した」と言い「似るがいけないと思う」。所謂だれに落ちたのである、と蛇笏は否定する。
「鉄条に似て蝶の舌暑さかな」という句は、かつて大正八年「ホトトギス」雑詠欄に「我鬼」の署名で掲載された。蛇笏は、同年七月号の「雲母」誌上でこの句を「主観的写生」の作であり、霊的な表現として「無名の俳人によって力作さるる逸品」であると称讃したのだった。やがて蛇笏は「我鬼」が芥川であることを知って、二人は書簡を交わすようになっていったのであった。蛇笏は、次のように述べる。
この句のいいところは調子をできるだけ緊張させ、矢継ぎ早にすさまじく読者に迫るところにあるので、思い設けない奇なあの鉄条を蝶の舌なりと見る作者の感激は、壊してはならない機微なところで、その鋭い針の先のような所に、明敏群を抜く芥川氏の感受性の働きがあり、当代一流の技巧家たる氏の叡智によって表現さるるところとなった点に、俳句としての傾向を見、芥川其の人の所謂大正の「調べ」として哀惜措きがたいものとしたいのである。
「雲母」昭和二年三月号
この記事に対して芥川は蛇笏に書簡を送り、「に似る」という粘るような感じが暑さを生かすのではないかと思ったと反論を行ったが、蛇笏はその主張を変えることはなかった。その数か月後、芥川は七月二十四日自裁。蛇笏はその年の「雲母」九月号に「芥川龍之介氏の長逝を深悼す」と前書きを付して「たましひのたとへば秋のほたる哉」と発表、その死を追悼したのだった。
芥川の死後七年の昭和九年、「俳句研究」八月号に、蛇笏は芥川を追悼して「河童供養」一連の俳句を発表、そのなかに次の一句がある。
ほたる火を唫みてきたる河童子 蛇笏
妖怪である河童の子が、頬のなかに螢の火をふくんでやって来たという光景。蛇笏は、想像力によって物語を紡ぎ、童心に溢れた妖しい河童の子を描いている。
十一 飯田蛇笏という俳人
蛇笏という俳人は生涯に亘って幅広い俳句を詠み続けた俳人であった。その俳句観は、古典俳句に対するように柔軟であった。かつ流行に敏感、興味関心の触角を広く大きく伸ばし、常に新しい俳句を求めていた。なかでも生涯の師高濱虚子に対しては、真剣にその作品評価に向かっていった。
蛇笏にとって有季定型、季題趣味と約束による十七音律は、俳句活動すべての前提であり絶対であった。
蛇笏は、初心者向けの入門書で、大切なことは、金輪際句作することだと語る。名句を求めてゆるやかにふところ広く構え、魂に触れるような懸命な句作が生み出す迫力を蛇笏は求めている。そのような蛇笏の姿は、わたしたちの俳句の未来に何らかのヒントを与えてくれるのではないか。先の「俳諧我観」で蛇笏は、新傾向俳句は徒労であり、やがて衰滅の時期を迎えるだろうと語っている。