1月 きごさい+報告 「文化交流と相互理解」
1月6日、第32回きごさい+がズームで開催されました。講師は董振華さん。中国北京のご出身で、現在は東京を拠点に俳人として、翻訳家として活躍されています。董さんよりご講演の概要をいただきました。
文化交流と相互理解 董 振華
新年早々、「きごさい+」のズーム交流会に参加出来て、真にありがとうございました。いつの時代でも文化交流は人と人、ひいては国と国との間の相互理解のための大事な手段です。
幼少時代、日本の映画、ドラマ、漫画、アニメの影響で日本に興味を持ち、大学では日本語を専攻し、就職後は日中交流の仕事に携わってきました。今回は文化交流の中で特に印象深かった二つのことについてお話しします。
Ⅰ 俳句と漢俳
一つは私を俳句の世界に導いてくださった金子兜太師との出会い。「董君は日中両国の言語が出来る。俳句を通して、将来、両国の文化交流と相互理解に役立つ人になるんだ。君にはそれができる。俺は信じる。」と力強く言っていただいたことは忘れない。
一九八〇年、大野林火を団長に日本の俳人訪中団(兜太も参加)が北京を訪れた。北海公園の?膳飯店で開かれた歓迎会で、当時の中国仏教協会の趙朴初会長が俳句に倣って三首の三行詩を詠んで、歓迎の意を表わした。そのうちの一首は下記のとおり。
緑蔭今雨来 緑陰に今雨来たり
山花枝接海花開 山花、枝接ぎて海花が開く
和風起漢俳 和風 漢俳を起こさん
五・七・五の形と中国語の漢字で綴られたこの三行詩は、後に漢俳の誕生を意味する。
翌年の四月に、林林、袁鷹が俳人協会のお招きにより訪日し、漢俳の形式、特色及び俳句との関り等について、山口誓子、大野林火、鷹羽狩行等の俳人の方々と意見を交換した。同時に「俳句と漢俳の架け橋に」を題とする文を『俳句』誌に発表。同年六月号の『詩刊』に趙朴初、林林、袁鷹三氏の「漢俳試作」十五首を掲載。これが漢俳の初めての公開的デビューである。「詩刊」の編集者も専ら「漢俳は中国詩人が日本の俳句詩人との交流の中で生まれた新詩体で、俳句の十七音(五、七、五)の形式と、押韻を加えた三行十七文字の短詩で、絶句、小令、或いは民謡に似ており、短くて凝縮した表現、文語、口語、抒情、写景どちらでもよい」と説明を付け加えた。続いて同年八月八日の「人民日報」に趙朴初、林林、袁鷹等の「漢俳試作」を掲載。これをきっかけに、「漢俳」は急速に中国全土に広がり、各界各層の人々が試作を始めた。一九八二年日本の『文芸用語基礎知識』、一九八八年の『中国新文学大系・詩歌』にはどちらも漢俳作品が収録されており、漢俳が新詩体としての文学的地位を確立した。
それからまもなく日本では一九八九年、国際俳句交流協会が創立した。それに呼応するかのように九〇年杭州で「和歌俳句研究会」、九三年上海で「上海俳句漢俳研究交流協会」、九五年北京で「中国歌俳研究中心」等が次々と発足。特に二〇〇五年北京で「中国漢俳学会」創立に際し、兜太を団長に三十五名が日本から祝賀に参会した。これにより漢俳は一層発展を遂げ、現在、漢俳の人口は一万人にものぼる。
Ⅱ 日本の物差しと中国の物差し
二つ目は交流の中で、相互理解を図るためには、相手国の文化や風俗習慣を知るのが大事であることを説明した。
〇「一衣帯水」共通した風俗
両国は二千年に及ぶ交流の中で、全く同じか或いは似通って風俗習慣を持つに至った。昔、日本が中国文化を吸収した際、習俗も一緒に日本に伝えられた。後に中国では変化が生じてからも、日本ではそれがずっと保存されてきた。
まず、古代中国から日本に伝わったものを言うと、羽根を揺らし、ひからびた籾米を吹き飛ばす唐箕、米を篩い分ける竹製の篩、穀物を掃く箒、土地を均すための熊手等があるが、これは皆江蘇省や浙江省から伝わってきたものである。
衣食住においても、両国には似通う部分が多く見られる。例えば、和服のゆったりした振袖は古代中国の服装の特徴である。また、日本の伝統的な居間には畳があって、そこには履物を脱いで入り、じかに座るが、これも中国古代の風習。一七〇〇年前、晋代の「管寧、席を分ける」という物語がある。菅寧と華歆は元々同窓生だったが、華歆は金と権力に目が眩んだため、菅寧は彼と席を分ける、つまり袂を分かつことになった。この物語は当時地面に直に座る習慣があったことを示している。
そして、暖簾といえば、日本ではこれを「暖簾」と書くが、もとは禅家が寒さを凌いだところから、その名が付いた。日本では、家に暖簾を掛けて、日の光を遮り、埃を防ぎ、外部の耳目を遮り、お店では暖簾を宣伝広告の代わりに使う等して、中国より用途が広範に渡る。
なお両国間には、お正月、端午の節句、お盆、重陽の節句等の多くの共通する祝日がある。日本では、端午の節句があり、男の子のいる家では子供の幸運と健康を祈って、庭に鯉幟を立てるが、中国でも鯉崇拝の風習がある。二千年余り前に、孔子に息子ができ、魯国の王様が鯉を送って祝福したため、孔子は息子を孔鯉と名づけた。現在中国では、春節(旧正月)を過ごす時に、子供が鯉を抱く絵を室内に貼ったり、大晦日に鯉の料理が出て、「年々有余」(年と共により多くのゆとりがもてるよう」と祈る。中国語のゆとりの意味を持つ「余」と「魚」との発音が同じだからである。
〇「求道存異」小異を認め、郷に入れば郷に従え
中国と日本の民俗習慣の共通点は枚挙に暇はないが、相違点も多くある。
話し方について:中国人は喋るにしろ、何かをするにしろ、単刀直入に意志を表現することを好むが、日本人の喋り方は相手に探りを入れつつ、遠まわしを表現します。かくして、中国人は日本人のことを回りくどくてはっきりしないと思い、日本人は中国人のことを単純でぶっきらぼうだと見なす。
持て成し方について:中国人が客をもてなすと、テーブルを埋め尽くすぐらいに肉や魚を振る舞い、置く場所がなくて皿を重ねることもある。日本人の場合は食器の美しさ、料理の種類の豊富さ、色の鮮やかさが重んじられ、量そのものは適度が好まれる。日本人は中国人のことを見栄え張りで無駄が多いと見なし、中国人は日本人をけちだと見なす。
数字好みの相違について:中国人は贈り物をする時に、偶数を贈るのが重視しており、日本人は奇数が好きだ。しかし奇数でも九は例外がある。九は単数の中で一番大きく、吉数として広く使われる。例えば、古代の中国の領土は「九州」と呼ばれ、天の高い所を「九天」「九宵」などと言った。紫禁城の部屋数は九九九九間とされ、宮殿の門にも横も縦も九つの釘が打たれ、表門と二番目の門の間にある目隠し塀には、九匹の龍が彫られ九龍壁と呼ぶ。日本ではこれと相反して、九には「苦」と同じ発音があり、九階のないホテルや九番の座席がなかったりする。
色彩好みの相違について:中国では鮮やかな色彩が好まれる。黄色は皇帝専用の色で、平民は使ってはならない。赤は縁起のいい色で、一番広く使われる。例えば、旧正月に紅い紙に対句を書いたり、子供が生まれて満一ヶ月の時には赤く染めた卵を食べ、結婚式で新郎は胸元に赤くて大きい花を付け、新婦は赤い服か赤い花柄の付いた服を着用する。一方、葬式では、白い麻布の喪服を着て、白い花を付け、白い靴を履くため、不吉な色と見なされてきた。これとは相反して、日本人は淡い色合いが好きで、特に白は高貴さや神聖さといったイメージがあるので、新婦は白いウェティングドレスに身を包み、新郎は黒い燕尾服(えんびふく)を着て、白いネクタイをしめる。
両国間の風俗習慣については枚挙に暇がありませんが、以上を持って両国の民俗の共通点、相違点そして交流について簡単に紹介させていただきました。
「俳句と漢俳」の話にしても、「日本の物差しと中国の物差し」の話にしても、文化交流は人々の意志疎通や国家間の相互理解にとって必要不可欠なことです。今日の話が少しでも相互理解のきっかけとなり、皆様の役に立てれば幸いに思います。ご清聴ありがとうございました。
講座の後、句会が開かれました。
句会報告 選者=董振華、長谷川櫂
◆ 董振華 選
【特選】
金の箔浮いてくるお茶お元日 森永尚子
三が日ただ月だけの青白し 奈良握
【入選】
破魔矢いま鈴を鳴らして落ちにけり 三玉一郎
揚げたての油条一本七日粥 森永尚子
初山河見たくて街の天辺へ 宮本みさ子
駅見ゆる席でコーヒー四日かな 金澤道子
元日や能登揺れて国みな揺るる 長谷川櫂
悴みてますます星と近くゐる 三玉一郎
能登揺れて荒海揺れて海鼠揺る 長谷川櫂
牛曳きし犂曽祖父の冬田打 石川桃瑪
暁天に若水汲みき桶の音 石川桃瑪
しんかんと星ひとつある二日かな 三玉一郎
お降りが濡らす襷や箱根路へ 奈良握
◆ 長谷川櫂 選
【特選】
揚げたての油条一本七日粥 森永尚子
【入選】
天地玄黄火鍋に年を惜しみけり 葛西美津子
手ぬぐひにいろはにほへと花の春 飛岡光枝
轟きて龍寝返るや冬の海 飛岡光枝
新年のいきなり揺らぐ秋津洲 葛西美津子