HAIKU+報告 五島高資さんの「人間・金子兜太に迫る」
2月7日 五島高資さんの講演と対談HAIKU+がズームで開催されました。
金子兜太小論 「人間・金子兜太に迫る」 五島高資
1. はじめに
大正8年(1919) 夏、金子兜太は、父・金子元春(伊昔紅)の長男として比企郡皆野町の母の実家で生まれる。
2. 兜太の父・金子伊昔紅のこと
(1) 兜太命名の地・宇都宮
宇都宮にいた父(当時、軍医として宇都宮の連隊に所属)が「トウタ」と命名し打電したが、生家が「藤太」と誤って役所に届出るが、後に「兜太」と判明し訂正。
(2) 医師・俳人
1920年、元春は上海東亜同文学院の校医として単身赴任。上海から高浜虚子の「ホトトギス」に投句。のちに水原秋桜子の「馬酔木」に移る。また「皆野盆歌」を「秩父音頭」へと改作。
3. 金子兜太と俳句の出会い
兜太は1937年、旧制水戸高校に入学し、出沢珊太郎との出会いを契機に俳句を始め、「白梅や老子無心の旅に住む」を詠む。この無為自然の感覚は後の「定住漂泊」へつながる。1941年、東京帝国大学に進学し、加藤楸邨の「寒雷」に学んだ。
4. 金子兜太と戦争
(1) 昭和18年、兜太は大学を繰り上げ卒業後、日本銀行に就職するも即座に海軍経理学校へ入学。翌年主計中尉としてトラック島に赴任し、深刻な食糧不足と激戦の中で多くの死を目の当たりにし、過酷な戦場体験を通じて「捨身飼虎」の精神を培った。
(2) 「文藝春秋・くりま」五月号・「戦地で俳句と訣別し、戦地でふたたび俳句に会う」・戦時中、殺伐とした階級絶対主義の軍隊で、身分の上下を超えて和気藹々と催されたトラック島での句会の様子が克明に記されている。当時、海軍中尉の金子兜太の句友で陸軍少尉の西澤實は次のように指摘する。
奇蹟のようなものです。何より兜太の人徳、その包容力があって可能になった。もう一つは、俳句そのものがもっている力、汎人間的な文芸の魅力だと思います。美しいものに憧れる心、優しいものに触れたいという気持ち、素敵なもののそばにいたいという人の思いに、俳句は応えてくれました。
礁湖守るは奥州鎮守甘藷兵 實
苦境にあっても矜持を保つ防人を彷彿させる。
足につくいとど星座は島被う 兜太
これは『金子兜太集』(筑摩書房)全句集に見えないが、『少年』に収録されている。のちに兜太が至る天人合一の詩境への嚆矢として感銘深いものがある。いとど(竈馬)は秩父でも詠まれており、「産土の風土」に裏打ちされた「生きもの感覚」とともに、星座が光る「天」と戦場の「地」あるいは「天国」と「地獄」、「あの世」と「この世」の狭間に逃げ場のない過酷な状況が覗える。島を覆うような美しい星空が却ってその過酷さを際立たせる秀句である。
魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ 兜太
のちに加藤楸邨から激賞される。飢餓のときは食用にもした蜥蜴だが、魚雷という殺戮兵器の上を這い回って消えた。敗戦を目前として、その長物が無用の長物であることを「小動物」に教えられるようだ。その姿は兜太自身とも重なるのかもしれない。
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 兜太
内地への帰国船での作。島に残した亡き戦友のみならず、これまでの自分への追悼も込められている。グアム島までは激しい船酔いに苦しめられたが、同島を出てからは不思議と船酔いは治まった。その直後、これからの生活に命をかけて生きる覚悟が定まったという。兜太は後の人生を俳句に捧げることでもののふから人間への再生を決意したのである。

5. 戦後俳句における、俳句改革の旗手
(1) 日本銀行復職と転勤。(昭和22年2月) 従業員組合の事務局長。その後、福島支店に約3年、神戸支店に4年半、長崎支店に三年半と、10年間の地方支店勤務。本店復帰。
① 福島支店時代(昭和25年)
暗闇の下山くちびるをぶ厚くし 兜太
② 神戸支店時代(昭和28年)
朝はじまる海へ突込む鷗の死 兜太
ある朝の神戸港。カモメは再び魚をくわえて飛び上がった。カモメは決して死んだのではない。ここで兜太は「死んで生きる」と思い定める。俳句へかける信念の再生とも取れる。
銀行員ら朝より螢光す烏賊のごとく 兜太
神戸支店の朝。前日、尾道の水族館でホタルイカを見物。この景を非生産性に生きる銀行員への皮肉、批評と取る者多く、社会性俳句の代表と読まれた。
③ 長崎支店時代(昭和33年1月) 転勤時、私の師であった「土曜」主宰・隈治人が駅まで出迎えたが、兜太は「熊襲のような大男」という印象を残している。長崎支店は私の母校・長崎東高等学校(旧姓長崎中学)のある丘の下にある。
湾曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太
粉屋が哭く山を駈け降りてきた俺に 兜太
美智子様のご婚儀から、その父・日清製粉社主と絡めて鑑賞されたが関係なし。旗揚げで賑わう長崎の山から降りたら、製粉工場のおじさんらしき人が寂しげに立っていた。
長崎では五島列島、平戸、島原に遊ぶ。
殉教の島薄明に錆びゆく斧 兜太
「殉教の島」:五島列島は、潜伏キリシタンの歴史と殉教の記憶が濃密に残る土地。「斧」:処刑・暴力の具体物というより、歴史的暴力の象徴として置かれ、時間の経過(錆)によって“過去が現在に沈殿する”感触を生む。「薄明」:夜明け/夕暮れの境目は、死と生の臨界を示す時間。平安時代、五島は「亡き人に逢える島―みみらくのしま―」(『蜻蛉日記』)として紹介され、生と死が交錯する時空でもあった。
(2) 日本銀行本店復帰
日本銀行本店時代(昭和35年5月)杉並区沓掛町に住む。
果樹園がシャツ一枚の俺の孤島 兜太
長崎から東京に移り、秩父や戦地と違って「土」が少ない都会にあって、近くの果樹園の土に親しんで、「風土」を楽しむ。
(3) 現代俳句協会の分裂
昭和22年、石田波郷らにより現代俳句協会が創設されたが、昭和36年の協会賞選考を契機とする世代間対立から分裂し、中村草田男らが俳人協会を設立した。この流れの中で、兜太ら前衛俳句は五七五を守りつつ、季語必須としない立場を示した。
6. 「造型」の詩法
兜太の俳句革新の理論的基盤は、昭和三十六年『俳句』掲載の「造型俳句六章」にある。兜太は近代俳句を、花鳥諷詠や写生構成に代表される諷詠的傾向、草田男らの象徴的傾向、赤黄男らの主体的傾向に分類し、いずれも「私」と世界を分ける主客二元論に陥りやすいと批判した。そこで主客の間に「創る自分」という新たな自我を導入し、現象学的エポケーによって物自体へ迫ろうとする造型の方法を提示した。
しかしその試みは独り善がりに陥る危険も孕む。〈粉屋が哭く〉句をめぐり、小西甚一は独り合点として否定したが、原子公平は異質な運動感覚の共有、すなわち間主体的自我の成立として評価した。兜太はこの間主体性を通じて社会性俳句へ進み、さらに超越論的主体へと深化させ、言葉を観念の死から生へと回復しようとした。
7. 「ふたりごごろ」による総体性
いずれにしても、のちに兜太は俳諧を「情(ふたりごころ)を伝える工夫のさまざま」であるとし、自己の内に閉じこもる「心(ひとりごころ)」に対する他者に開かれた「ふたりごごろ」に注目するようになる。このことはまさに個別的自我や間主体的自我から超越論的自我への志向を示すものである。フッサールの超越論的還元においては、その総体性を保証するものを類比的統覚という漠然とした概念で捉えているのに対して、兜太はその超越論的還元の保証を「風土は肉体である」という原初的な体感的共有感覚に求めたのである。
人体冷えて東北白い花盛り 兜太
「私」ではなく思考以前の「人体」が置かれる。特定の花名を避けた「白い花」は、東北の風土そのものが春として立ち上がった姿である。冷える身体と白い花が説明なく並び立つことで、人と自然は対立せず共在する。そこに兜太のいう「ふたりごころ」が生まれ、死に近い冷えの中から、かえって確かな生の感覚が浮かび上がる。
8. 「生きもの感覚」
兜太にとって「荒凡夫」とは、一茶の言葉に示された、作為を脱いだ自由で平凡な人間像であった。ものに裏打ちされた言葉が生き、本能のままに生きる命どうしが触れ合う感覚である。兜太は一茶や山頭火に憧れつつも、自己の風土と体験を通して、独自の「生きもの感覚としての荒凡夫」を目指した。
9. 「産土の風土」に裏打ちされた詩境
猪がきて空気を食べる春の峠 兜太
森羅万象における詩的相互交流によって、やがて、秩父という産土の風土に裏打ちされた「生きもの感覚」すなわちアニミズム的感性による大いなる生命が句に立ち現れるようになる。
梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太
兜太の住んだ熊谷は縄文海進の記憶を持つ。咲き満つ梅は珊瑚のように庭を仄めかし、青鮫が寄り来る気配を醸す。白と青の交錯のうちに、兜太がいう「生きもの感覚」に裏打ちされた「情」が、古今を貫いて感応する。
10. 金剛三昧院のこと
(1) 「還源為思」
数年前、私が結縁灌頂を受けに高野山を訪れた折、たまたま金剛三昧院の宿坊に泊まった。そこに金剛峯寺座主・松長有慶先生揮毫の「還源為思」が掲げられていた。その語は、空海の「性薫我を勧めて還源を思いとす。経路、未だ知らず。岐に臨んで幾たびか泣く」(『遍照発揮性霊集』)に由来する。生まれながらに備わる仏心(性薫)に促され本源へ還ろうとするが、道が見えず分岐点で泣かずにいられない――その切実な懊悩がここにはある。空海が用いた「泣く」は日常的悲嘆ではなく、覚醒へ向かう途上で避けがたい根源的苦悩の表現である。この姿は、造型の詩法が理解されず苦闘した兜太の〈粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に〉と重なり、表現の岐に立ちつつ本源を志向する創作者の精神的葛藤を照らしている。
(2)「粉屋」は誰だったのか
〈粉屋が哭く〉の「粉屋」は、単なる抽象的他者ではなく、理解されず、なお働き続け、哭くことしかできない「ひとりごころ」を体現する存在であった。私はかつて、異質な運動感覚の同化や間主体的共有の立場からこの句を擁護したが、今振り返れば、そこには新しい俳句の方向を模索し苦悩する若き兜太自身の姿が重なっている。粉屋は作者であり読者であり、なお本源に至れぬ「思」そのものでもあった。しかしこの哭きは徒労ではない。仏教的に言えば、智慧へ至る道は必ず我執の焼失という懊悩を通過する。〈粉屋が哭く〉は、兜太の造型論や社会性俳句が燃焼の途上にあったことを示す、智を通過する際に避けられない苦悩の噴出なのである。
(3) 還源為思 = 定住漂泊
ここで二つの言葉が、完全に重なります。還源為思 帰る場所はまだなく、しかし帰ろうとする衝動だけが確かにある。定住漂泊 定着しているようで、実はつねに移動している存在のあり方であり、これは、「到達点」ではなく「駆動形式」である。
兜太は、「社会性」や「前衛俳句」に止まったのではなく、つねに「思としての還源」に駆動され続けた結果、「ふたりごころ」それを裏打ちする「生きもの感覚」「産土の風土」というものに重きを置いていったと言える。
その最終形が、生前最後の句集の題名でもある「日常」であり、句集『日常』収められている、以下に記す、高野山での句に示されている。
① 山も谷も若葉が埋める空海なり 兜太
見えているもの:山も谷も若葉でびっしり。世界が緑に覆われる。兜太は「その緑ぜんぶが、空海みたいだ」とかみ砕き、空海は「偉人」じゃなくて、いま目の前の自然の「気配」として立ち上がる。
② 金剛三昧院石楠の花は智慧だ 兜太
兜太はここで、「智慧とは何か」を説明しない。考えた末に結論を出したのでもない。
ただ、石楠の花は智慧だと、言い切ってしまう。金剛三昧院は、智慧を求めて修行する場所。けれど兜太は、智慧を語る建物よりも、黙って咲いている花の方を見て、こちらが智慧だ、と見抜いた。石楠の花は、悟ろうともしないし、理解されようともしない。ただ、咲いている。そこに在る。
兜太は生涯、造型だとか、社会性だとか、智の言葉を徹底的に生きた人だった。逆説的に、だからこそ、智を生き切った末に、智を説明しなくてよくなった。それは、金剛を捨てたのではない。金剛が、そのまま慈悲として、日常に現れてしまった。金胎不二の一句である。
同じ感覚は、「人体冷えて東北白い花盛り」にもはっきり出ている。ここでは人間は「私」ではなく、ただの「人体」になる。冷える身体と、咲き満ちる白い花が、同じ場所で、同じ空気を分け合っている。人と自然が向き合うのではなく、並んで立っている。
石楠の花も、白い花も、智慧を語らない。ただ、生きものとして在る。
③ わが夢寐に石楠の花厚く溜る 兜太
兜太はもはや外の景色を見ていない。山も寺も花も一度すべて自らの内側に引き取られている。「夢寐」とは単なる夢や睡眠の時間ではなく、生きている時間そのものが、どこか夢のようであり、同時に死に近くもある、そのあわいの感覚を示す語である。その深部に、石楠の花が一輪二輪ではなく「厚く」溜っている。それは考えて得た智慧でも修行の成果でもなく、説明もできない。ただ、生きているうちに知らぬ間に、花のような智慧が身体の奥に沈殿してしまったのである。兜太はそれを誇らず、悟りとも言わない。ただ「そうなってしまった」と静かに受け止める。若き日に智を尽くし、悩み、哭き、走り続けた末に辿り着いたのは、もはや多くを語らなくてよい場所だった。この一句は、生きもの感覚に裏打ちされた時間そのものが智慧へと転じ、生ききった先にもなお生が続いていることを、そっと示している。
11. 生死を越える句境
(1) 大患を克服して、死の危機を克服。
① 胆管癌 : 見つかったときには治癒困難な癌だが、奇跡的に手術が成功。
② 類天疱瘡 : 長谷川櫂氏の機転ある導きによって慶應義塾大学病院に入院し、無事完治。
よく眠る夢の枯野が青むまで 兜太
兜太晩年の句境を象徴する一句である。兜太は朝夕、亡き人の名を唱える称名とともに、神棚の前で三十分から一時間の立禅を行い、心気を整え、産土の神々や死者との交感を深めていた。睡眠を疑似的な死の体験と捉える兜太にとって、「よく眠る」とは死者との篤い交わりであり、その夢の中で枯野は青み、命は再び輝く。立禅と称名に裏打ちされたこの一句は、生と死を隔てず、命の不滅を静かに確信する境地を示している。
12. 死の床に再会
(1) 誤報
時事通信は2月19日午前6時50分ごろ、俳人で文化功労者の金子兜太が死去したとの記事を配信したが、後に誤報だと判明し、約1時間後に記事全文を取り消した。私は慌てて先生が入院している熊谷市の病院を訪ねると、面会謝絶にもかかわらず、先生とお目にかかれて、最後の貴重なひとときを得たことは幸いであった。
(2) 最期の別れ
片目にて笑む師のなみだ風光る 高資
永日や手のひらに手のひらを置く 同
(3) 墓参
月命日の2025年4月20日、秩父長瀞の菩提寺・総持寺を訪ねたが、墓所が分からず彷徨っていると、竹林から現れた女性に導かれた。後にその方が住職夫人であり、筍まで頂くという不思議な縁が重なった。同行の干野風来子さんと墓掃除をしたが供華を忘れ、近くに咲いていた諸葛菜の紫花を供えたが、後になって兜太が同じ花を詠んでいたことを思い出し、奇遇を覚えた。墓前で感じた先生の気配は錯覚ではないように思われ、〈諸葛菜猫が猫背で往き来して〉の句が、時空を超えて「人は死なない」という言葉を確かに裏打ちした。
13. 私との出会い
私が初めて金子兜太先生にお目にかかったのは四十年前、高校生の頃である。隈治人主宰「土曜」全国大会での講演で、兜太先生が語った「俳句は寸鉄詩」という言葉は、花鳥諷詠・有季定型を旨としていた私に強烈な衝撃を与えた。講演後に言葉を交わした記憶は定かでないが、その印象は深く残った。その後、俳句から離れていた時期に、全国学生俳句大会で文部大臣奨励賞を受賞したが、これは兜太先生の選考によるものであった。俳号も異なり、私とは気づかれなかったはずだが、この僥倖を機に個人的な師事を許された。現代俳句新人賞受賞後、第一句集『海馬』は兜太先生の帯文を得て中新田俳句大賞・スウェーデン賞に選ばれ、さらに評論賞を受賞。先生の推挙で朝日新聞俳句時評を二年間担当し、のちに「海程」同人にも推挙された。
その後、紆余曲折を経て俳句の道を歩む中で、人生の岐に立たされたとき、最初に手を差し伸べて下さったのが兜太先生であった。電話での励ましはもちろん、手紙には「何かのときは小生に連絡あれ」とあり、涙が止まらなかった。まさに不肖の弟子にもかかわらずいつも温かいお心で長きに亘って私を支えて下さった大恩は死んでも忘れることはできない。
