1月29日、講師に俳人の毬矢まりえさん、詩人の森山恵さんご姉妹をお迎えして「きごさい+」が開催されました。『源氏物語 A・ウェイリー版』全四巻を出されたご姉妹。この美しく画期的な訳書は第一巻発刊時から注目され、2020年のドナルド・キーン特別賞を受賞されました。
紫式部とウェイリーと時空を超えてご姉妹で再創造された『源氏物語』、その魅力と文学的な意味を堪能したご講演でした。ご姉妹から概要をいただきましたのでご覧ください。
時空を超える『源氏物語』
紫式部、アーサー・ウェイリー、芭蕉へ
毬矢 まりえ
森山 恵
Ⅰ.『源氏物語』、ウェイリー訳『源氏物語』との出会い
まず、幼い頃に百人一首との出会いがありました。なかでも好きだった歌「めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かな」。この歌人が、『源氏物語』という物語の作者、紫式部と知ります。そして十代半ばから源氏物語を読み始めました。最初は母の書棚に並んでいた谷崎潤一郎訳、それから与謝野晶子訳、円地文子訳、古典原典と読み進めていったのです。
アーサー・ウェイリー訳『源氏物語The Tale of Genji』との出会いは、大学院で恵が研究していた小説家ヴァージニア・ウルフを通してでした。彼女の友人であるイギリス人のオリエンタリスト、アーサー・ウェイリーが、いまから約100年前、世界で初めて『源氏物語』を英語全訳したと知ったのです。語学の天才である彼は独学で日本語を学び、約十年でこの偉業を成し遂げました。1925年に第一巻が出版されるや、文壇の大評判となります。「人類の天才が生み出した十二の名作のひとつ」と原作も翻訳も激賞され、『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』『失われたときを求めて』などと並び称され、一躍世界文学と認められました。レディ・ムラサキの、世界の文壇への鮮烈なデビューでした。
Ⅱ. 『源氏物語 A・ウェイリー版』の戻し訳/らせん訳
様々な経緯を経て、この作品を「戻し訳しよう!」と決意した私たち。なんとか引き受けてくれる出版社、編集者を見つけ、約3年半の訳業が始まりました。翻訳の上で、とくに工夫したのは次の点です。
① ルビ
ルビは視覚的に一瞬で重層的なイメージが創り出せる日本語特有の表現だと思います。漢字にカタカナ、現代日本語に古語、
カタカナに現代語・古典語など、ルビを細かく使い分けました。1000年前の平安時代、100年前のイギリス、現代の日本、それぞれの言語・文化の多層的イメージを読者に伝えたかったのです。
② カタカナ
登場人物の名前をカタカナで表記しました。
どこの国か、いつの時代か、限定されない新しい源氏物語を創造したい。それが私たちの願いでした。ゲンジ、トウノチュウジョウ、レディ・コキデン、プリンセス・アオイ……。
人名だけでなく、硯や障子、数珠、琵琶、琴、横笛といった事物も、日本の古典世界に訳し戻さず、平安時代から解放しようとしました。レディやプリンスは馬車に乗り、ワインを片手に愛の言葉を交わし、フルート、リュートで音楽を奏でます。どの単語をどう訳すか、一語一語悩み迷い、二人で話し合いました。
Ⅲ.ウェイリー源氏の和歌について
ウェイリーは詩人でもありましたから、物語中の和歌、詩の重要性をよく理解していたと思います。けれども基本的には和歌を韻文としては訳さず、「~という詩を詠みました」「~と詩で答えました」など、見事に訳文に織り込んでいます。その代わり、その部分が詩であることが伝わるよう、ウェイリーはさまざま手法を用いています。そのひとつが「本歌取り」ともいうべき形です。
① シェイクスピア
一例として、シェイクスピアのソネット18番を挙げたいと思います。10帖「賢木」で光源氏と頭中將が交わす歌です。原典の歌は、
・それもがとけさひらけたる初花に劣らぬ君がにほひをぞ見る
・時ならでけさ咲く花は夏の雨にしをれにけらしにほふほどなく
ウェイリーはこの和歌を、シェイクスピアの有名なソネット18番の言葉を借りて翻訳しています。
“Not the first rose, that but this morning opened on the tree, with thy fair face would I compare.”
“Their time they knew not, the rose-buds that today unclosed. For all their fragrance and their freshness the summer rains have washed away.”
・あなたの美しい顔は、今朝咲き初めたファーストローズにも比べられようか
・今朝開いた薔薇のつぼみは、自らの時を知らなかったのです。その香気も瑞々しさも、夏の雨が洗い流してしまいましたから
(『源氏物語 A・ウェイリー版』拙訳)
シェイクスピア ソネット18番の第一連は、
Shall I compare thee to a summer’s day?
Thou art more lovely and more temperate:
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer’s lease hath all too short a date;
君を夏の一日に喩えようか
君はさらに美しくて さらに穏やか
夏の荒々しい風は可憐な蕾をゆさぶるし
それに夏はあまりにも短いあいだしか続かない
first rose, buds, compare, summer などの単語を含む訳文から、シェイクスピアの有名なソネットを想起せずにはいられません。
② 『源氏物語』の文学的重層性
紫式部の文章そのものにも、重層性があるのです。この一場だけでも、たとえば頭中将の歌は紀貫之の本歌取りになっていますし、その他白楽天の漢詩、催馬楽の「高砂」、史記など、いくつもの言葉が歌の前後に引用、言及されています。ウェイリーは白楽天の翻訳者でもありますから、注をつけるなどして紫式部の文学の重層性も読み取って読者に示しています。
Ⅳ. 芭蕉と源氏物語
さて、江戸の俳人松尾芭蕉の俳句にもまた、『源氏物語』を読み取ることができます。芭蕉は『嵯峨日記』に記述に見られる通り、『源氏物語』を愛読していました。芭蕉の師・北村季吟は源氏物語の注釈書『湖月抄』を著した学者でもありましたから、芭蕉も影響を受けていたでしょう。たとえば、
曙はまだむらさきにほとどきす
芭蕉の頭には当然、清少納言『枕草子』があったと思います。
けれど前書きに「(……)暁 石山寺に詣。かの源氏の間を見て」とあります。「むらさき」は紫式部へのオマージュでもあったのです。また「おくのほそ道」の冒頭部には、「弥生も末の七日、曙の空朧ゝとして、月は在明にて光をさまれる物から……」とあります。これは『源氏物語』の「帚木」帖と呼応しています。
『源氏物語』原文と比較して、他に3句例を挙げたいと思います。
夕顔のみとるるや身もうかりひよん (続山の井)
寄りてこそそれかとも見めたそがれにほの〲見つる花の夕顔(『源氏物語』「夕顔」帖)
花の顔に晴うてしてや朧月(続山の井)
いと若う をかしげなる声のなべての人とは聞えぬ、朧月夜に似る物ぞなきと(『源氏物語』「花宴」帖)
笋や雫もよその篠の露 (続連珠)
御歯おひいづるに食ひあてむと、たかなをつと握りもちて、雫もよよと食ひぬらし給へば(『源氏物語』「横笛」帖)
Ⅴ. 結論
千年前に紫式部が書いた『源氏物語』には、ご紹介した場面だけでも古今集の紀貫之、白楽天の漢詩、催馬楽、中国の歴史書『史記』が引用されていました。350年前の芭蕉にもまた、その『源氏物語』をはじめ、白楽天や杜甫などの漢詩、万葉集、古今集などの古典が響いています。そして100年前のアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』にも、シェイクスピアなどイギリス文学やヨーロッパ文学、白楽天の言葉までが重ねて翻訳されているのです。普遍的な作品には、こうした文学的重層性があるのではないでしょうか。
私たちも多層性を意識し、その多声を反映した作品にしたいと言葉を探し、推敲し続けました。この翻訳を私たちは仮に「らせん訳」呼び、言葉の創造に挑みました。哲学者ヘーゲルは、歴史は「らせん的に発展する」と説いています。上からはただの円ですが、横から見ると上方へと向かう「らせん」。ヨーロッパの言語・文化を潜り、時空を超えた『源氏物語』。その物語を、単なる「戻し訳」ではなく「らせん的に」再創造したかったのです。もちろん、非力な私たちにどこまでそれが成せたか……心もとなくありますが、能う限りを注ぎました。少しでも読者の方々に感じていただけるものがあれば、幸せに思います。
長谷川櫂先生には、第一巻刊行のときから拙作の本意と価値を見抜いて、励ましの言葉を送っていただきました。
皆さま長時間拙い話を聞いていただき、ありがとうございました。 (了)
ご講演後、句会も開かれました。
句会報告 選者=長谷川櫂、森山恵、毬矢まりえ
◆ 長谷川櫂 選
【特選】
いくとせの春にほそりし九十九髪 川村玲子
わが胸に春匂ひたつ一書かな 葛西美津子
読みさして春の重みを膝の上 葛西美津子
春の夢目覚めぬままに一生過ぐ 上田忠雄
うたた寝の源氏の君か花びら餅 澤田美那子
【入選】
赤子眠る春のささやき聞きながら 趙栄順
春節や天地自在に龍の舞 木下洋子
春はすぐそこに苺は大福に 澤田美那子
冬ごもり六条御息所恐ろしき 上松美智子
白梅や老神父よりエアメール 毬矢まりえ
春立つや雪より寒き雨の降る 澤田美那子
風花や生死のあはひ隔てなく 藤英樹
蝋梅は四方八方ひかりかな 藤原智子
梅の香や道通さじと石一つ 花井淳
日向ぼこ昔小町と言ひ合うて 木下洋子
シャイニングプリンスようこそ千年後の春へ 上田雅子
白梅と紅梅といふ姉妹あり 三玉一郎
風花のその一片のやうな恋 藤英樹
痛きほど固き莟は白梅か 葛西美津子
春霞となりゆく人やつくも髪 川村玲子
時々は猫の入りくる冬ごもり 飛岡光枝
◆ 森山恵 選
【特選】
大白鳥はや線になり点になり 高橋慧
初雀若紫を訪ふならむ 中丸佳音
夢の世の岸をはるかに流し雛 長谷川櫂
シャイニングプリンスようこそ千年後の春へ 上田雅子
白梅と紅梅といふ姉妹あり 三玉一郎
【入選】
大寒の竹百幹の影真直ぐ 中丸佳音
バラ線のこの穴くぐり恋の猫 宮本みさ子
雪兎この世に赤き実をふたつ 飛岡光枝
絵屏風や衣摺れの音の行き交ひぬ 高橋真樹子
日脚のぶ雀目白とうち混じり 澤田美那子
水仙の二本ばかりを文机 田中益美
書く人の魂千年の春空に 越智淳子
手紙待つ日々過ぎにけり冬木の芽 田中益美
一滴の墨の滲みや春の雪 上田忠雄
人の世へ涙をこぼす屏風かな 三玉一郎
夢の世を流るる河へ流し雛 長谷川櫂
蝋梅は四方八方ひかりかな 藤原智子
山眠りながらときどき笑ひたる 藤原智子
梅の香や道通さじと石一つ 花井淳
薄氷光の音をたてて消ゆ 葛西美津子
椿落つただ窓開けただけなのに 金澤道子
うたた寝の源氏の君か花びら餅 澤田美那子
有明の寒月全きまゝに落つ 足立心一
時々は猫の入りくる冬ごもり 飛岡光枝
◆ 毬矢まりえ 選
【特選】
几帳より洩れくる光寒牡丹 花井淳
初雀若紫を訪ふならむ 中丸佳音
わが胸に春匂ひたつ一書かな 葛西美津子
書く人の魂千年の春空に 越智淳子
梅の香や道通さじと石一つ 花井淳
うたた寝の源氏の君か花びら餅 澤田美那子
読初に挑む二度目の源氏かな 上田雅子
【入選】
母の手が金粉降らす貝合せ 川村玲子
春薫る石山寺の苞の伽羅 越智淳子
大白鳥はや線になり点になり 高橋慧
雪兎この世に赤き実をふたつ 飛岡光枝
絵屏風や衣摺れの音の行き交ひぬ 高橋真樹子
橋の上すれ違ひしは佐保姫か 中丸佳音
母の声聞きたき朝や花ミモザ 川村玲子
読みさして春の重みを膝の上 葛西美津子
小夜時雨ジャズの粒立つ旅の宿 畝川晶子
花吹雪舞ふや公達風の袖 越智淳子
シャイニングプリンスようこそ千年後の春へ 上田雅子
着ぶくれの園児圧しあふ乳母車 足立心一
白梅と紅梅といふ姉妹あり 三玉一郎
半仙戯交互にゆらす姉妹かな 三玉一郎