「きごさい+」でお話しいただいた安成哲三先生の新著『モンスーンの世界 日本、アジア、地球の風土の未来可能性』(中公新書)が出版されました。俳句が育まれた東アジアの季節風についての一冊です。葛西美津子さんの一句が紹介されています。
等圧線崩れ崩れて春そこに 美津子
「きごさい+」でお話しいただいた安成哲三先生の新著『モンスーンの世界 日本、アジア、地球の風土の未来可能性』(中公新書)が出版されました。俳句が育まれた東アジアの季節風についての一冊です。葛西美津子さんの一句が紹介されています。
等圧線崩れ崩れて春そこに 美津子
購読を希望される方は、右サイドのお問い合せからお申し込みください。一冊1500円(送料込み)になります。きごさいの正会員には発送済みです。
きごさい 第十五号 目次
戦争と俳句
ウクライナ戦争から見えたもの 斎藤嘉子
連載 加藤楸邨×大岡信 対談③
楸邨の代表句集『野哭』を読み解く 構成・解説 西川遊歩
連載 末期的大衆社会を`どう乗り越えるか④
消費される俳句-合理的経済人の誤謬 臼杵政治
世界の暦と歳時記
砂の季節 市川きつね
世界を結ぶタイ暦 イーブン美奈子
「サラダボウル」の国の休日 ストーン睦美
HAIKU十(今何が問題か)
俳句の魅力-飯田蛇笏より 井上康明
きごさい十(講座十句会)
時空を超える『源氏物語』 森山 恵・毬矢まりえ
気候の危機と俳句の危機 長谷川公一
祈りや願い 落雁に込めて 中山圭子
麹菌と麹の秘密 鈴木ひろみ
動物季語の科学的見解 哺乳類 藤吉正明
清澄庭園で四年ぶりの表彰式
三月十一日(土)、都立清澄庭園内の大正記念館において、第十二回きごさい全国小中学生俳句大会の表彰式が、四年ぶりに行われました。
コロナウイルス感染症が下火になってきたこともあり、受賞者とその保護者合わせて約百五十人が参加。中には、長崎や大阪、京都など遠方から参加された方も見られました。表彰式への参加率は非常に高く、この間、コロナウイルス感染症の拡大でこの種の行事ができなかったこともあり、この表彰式が待ちわびられていたことを強く感じさせられました。
清澄庭園での開催は初めてですが、東京を代表する名庭園であり、芭蕉の古池の句碑もあり、会場の近くには杏の花も満開、春爛漫を感じられる笑顔溢れる表彰式になりました。また、今大会は、web環境も活用し、全国からの参加を可能とし、リアルとリモートを両立させた初めてのケースです。また、清澄庭園や江東区芭蕉記念館の多大なご協力のおかげで素晴らしい表彰式が実現することができました。
☆
今大会では、全国の七十五校から一万一千句近い作品が寄せられた。その中で大賞に選ばれたのは、次の俳句です。
わしづかみ今日の落葉の香かぐ 品川区立後地小学校六年 水野優一
特選に選ばれたこどもたちには、副賞として長谷川櫂監修、季語と歳時記の会編集の『こども歳時記』(小学館刊)が贈られました。
学校賞には、小学校の部が江東区第二亀戸小学校、中学校の部は私立の麗澤中学校が選ばれました。
賞状の授与の後、長谷川櫂、髙田正子、上澤篤司、飛岡光枝、小山正見各氏によるパネルディスカッションが行われ、参加者一人一人の俳句への評が語られました。
詳しくは、「入賞句集」をご覧ください。(一部五百円でお分けします。)
西川遊歩きごさい副代表の終わりの言葉の後、記念撮影が行われ、温かい雰囲気の中で表彰式を終えることができました。
令和五年度の第十三回の大会の募集期間は、五月から十一月末まで。表彰式は、令和六年三月九日(土)に今年度と同じく都立の清澄庭園で行われる予定です。
さまざまなジャンルから講師をお迎えして季節や文化に関わるお話をお聞きする「きごさい+」
今回の講師は、新井一二三のペンネームで中国語著作もたくさんおありの明治大学理工学部教授 林ひふみさんです。ぜひご参加ください。
講演の後、句会もあります。(選者:林ひふみ、趙栄順、長谷川櫂))
日 時:2023年5月20日(土) 13:30~16:00
演 題 : 台湾映画の世界
講 師 : 林ひふみ (新井一二三)
プロフィール:
明治大学理工学部教授。1990年代より、香港、台湾、北京、上海、広州各地の中国語新聞・雑誌にコラムを寄せる。主に日本の社会・文化をテーマとする中国語著作が30点あまりある。日本語著書に『中国・台湾・香港映画のなかの日本』(明治大学出版会)、『台湾物語』(筑摩選書)、『中国語は楽しい』(ちくま新書など)、訳書に『オールド台湾食卓記:祖母、母、私のいきつけの店』(洪愛珠著、筑摩書房)など。明治大学では中国語のほかに、「映画で学ぶ日本とアジア」「映像を通じて識る台湾」ゼミを開講。趣味は旅行と料理。
講師からのひと言
近年日本では台湾ファンが急増し、ちょっとしたブームと言えるほどになっています。台湾からも多くの旅行客が日本を訪れています。しかし、実のところ、台湾は日本とは大きく異なる社会で、なかなか理解が難しい面もあります。大衆向けに作られた映画は、私たちが外国の事情を理解しようとする際、大きな手助けとなってくれます。今回は、1980年代の台湾ニューシネマ以降のヒット作品に沿うかたちで、台湾社会の変遷についてお話ししたいと思います。
2023年5月20日(土) 13:30~16:00 (13:15~ Zoom入室開始)
13:30~14:45 講演
14:50~15:20 句会(選句発表)
15:20~16:00 趙栄順(きごさい編集委員)との対談、質疑応答
<申込み案内>
参加申し込みは終了いたしました。
【大賞】
あきらめなさい金魚がささやいた恋 高津佳子
【受賞者の略歴とコメント】
<略歴>
遡ること高校2年生の現国の授業でした。先生が俳句の世界の面白さを話してくださり、私の俳句との出会うきっかけとなりました。それ以降俳句は、季語を入れるのを忘れて忘れたことも気付かないといったスタートでしたが、好きだったんですね。途中仕事や子育てに追われていた時期でも、俳句を細々と作っていました。20代の頃に俵万智さんの「サラダ記念日」に衝撃をうけ「恋の句」を意識するようになりました。それから長い月日が流れましたが数年前、季語を探している時にきごさい歳時記で調べたことが、この恋の句大賞に応募するきっかけとなりました。現在はリモートで仕事をしている夫と2歳の猫と生活しています。
<コメント>
恋の悩みを飼っている金魚に日々聞かせていた女性。金魚は何を聞かされてもひょうひょうとゆったりと泳いでいる。意中の人とは結ばれることはないと悟ったある日、金魚のパクパクとした口が「あきらめなさい」とささやいているように見えた。そんな金魚と女性のユーモラスで可愛らしい様子を詠んでみました。
☆村松二本 選
【特選】
うららかや調子外れのきみのうた 綾竹あんどれ
道ならぬ恋を弔う花野かな 池谷勝利
【入選】
聖樹の灯あなたは白い嘘をつく げばげば
老の恋皺の谷間の寒椿 教野道雄
あきらめなさい金魚がささやいた恋 高津佳子
レモンスカツシユそれから新しい恋も 田中目八
狼になれないオレはにゃーと鳴く 千葉文智
☆趙栄順 選
【特選】
あきらめなさい金魚がささやいた恋 高津佳子
生れたての恋やマフラーきつく巻く 山田蹴人
流れ星見てゐる君を見てをりぬ 井出久美子
【入選】
ぶらんこの止まれば君に伝えやう 田中目八
ライオンの像と君待つ聖夜かな 矢作 輝
雑踏に君をみつけてクリスマス 倉森信吉
秋夕焼け明日また逢えるさようなら 大野 喬
小春日やシチューとろとろ恋してる 城内幸江
冬木立抜けてふたりの通学路 森 佳月
☆長谷川櫂 選
【特選】
アイロンで伸ばす初恋秋麗 伊庭直子
あきらめなさい金魚がささやいた恋 高津佳子
観覧車二人の月の沈みゆく 十音
恋終へし人へぶらんこ貸出中 げばげば
【入選】
私のキューピッドになれ雪礫 村上ヤチ代
春立つや口では勝てぬ恋女房 川辺酸模
百歳になつても君とバレンタイン 石川桃瑪
風船の割れない距離を保つ恋 澤田 紫
忘れ方教えて消えろシャボン玉 吉田里香
狼になれないオレはにゃーと鳴く 千葉文智
1月22日、講師に競技かるたA級六段、ワシントンDCいにしへ会主宰のストーン睦美さんをお迎えして「きごさい+」が開催されました。
米国、英国、カザフスタン、タイ、中国、現在再び米国を拠点に、「競技かるた」を世界へ広められている、第一人者の情熱あふれるお話でした。
ストーン睦美さんに概要をいただきましたのでご覧ください。
小倉百人一首~競技かるたの世界~ ストーン睦美
〇はじめに
『小倉百人一首』は百首の短歌集で、藤原定家(一一六二~一二四一年)の編纂とされます。友人の宇都宮頼綱の山荘に飾る色紙用に選んだ歌が、後に歌集としてまとめられ、『百人一首』と呼ばれるようになったと考えられています。
選ばれた百首は七~十三世紀に作られたもので、百人の歌人がほぼ時代順に並べられています。天智天皇・持統天皇の親子で始まり、後鳥羽院・順徳院の親子で終わることから、律令政治の始まりから貴族政治の終焉までを歌で綴った歴史絵巻という見方もできます。
室町時代以降には、『新百人一首』『武家百人一首』など様々な百人一首が作られました。それらと区別するために、定家の山荘のあった地名の「小倉」がつけられましたが、ほかの百人一首は歴史から消えてしまい、今日『百人一首』といえば、ほぼすべて『小倉百人一首』を指します。『小倉百人一首』は和歌の入門書とされ、江戸時代には寺子屋での女子用教科書としても使われました。
十六世紀後半、ポルトガルから遊戯用カード(南蛮かるた)が伝来しました。当時日本にはゲーム用カードがなく、ポルトガル語のcartaがそのまま日本語で「かるた」となりました。江戸時代には、この南蛮かるたのカード形式を真似た「歌かるた」が作られるようになり、「百人一首かるた」も登場します。初期のかるたは手書きの高級品でしたが、元禄期には木版刷りで大量生産できるようになり、「百人一首かるた」は庶民にも手が届くものとなり広まりました。
江戸時代の「百人一首かるた」は、一方に作者名、歌人の絵、上の句が、もう一方には下の句が漢字仮名混じりの崩し字で書かれていました。しかし、これでは遊ぶ人のうちの誰かが百首覚えていないとどれが正しい取り札がわかりません。明治時代になると、絵札のほうに一首全部が書かれるようになりました。その後、印刷書体の札となり、取り札はすべて平仮名となりました。
〇競技かるたルール
百人一首かるたを使った一対一の個人戦「競技かるた」は、一九〇四年に現在の競技規定に近い形で初の大会が開催されました。競技かるたでは、百枚のうち五十枚(自陣・相手陣二十五枚ずつ)を使い、読手は上の句を読み選手は下の句の札を取ります。先に自陣の札がなくなったほうが勝ちです。
競技かるた選手の団体である全日本かるた協会では、段位と級を制定しています。初心者はE級(無段)の公認大会に出場し、上位入賞でD級(初段)となります。各級の大会で上位になると昇級でき、トップのA級大会には四段以上の選手が出場できます。かるたというとお正月のイメージがありますが、一年を通じて週末日本のどこかで大会が開かれています。毎年一月には、第一番の天智天皇を祀る滋賀県大津市の近江神宮で、名人位・クイーン位決定戦が開催されます。
〇究極の頭脳スポーツ
選手が速く札を取れるのは、試合前十五分間の暗記時間に五十枚の札の位置を覚えることと、「決まり字」を知っていることによります。決まり字とは、「下の句を特定するための上の句の最初の数文字」です。選手は上の句の最初の文字で百首を分類し、次の順に覚えます。
一枚札 むすめふさほせ 一枚ずつ 計七枚
二枚札 うつしもゆ 二枚ずつ 計十枚
三枚札 いちひき 三枚ずつ 計十二枚
四枚札 はやよか 四枚ずつ 計十六枚
五枚札 み 五枚
六枚札 たこ 六枚ずつ 計十二枚
七枚札 おわ 七枚ずつ 計十四枚
八枚札 な 八枚
十六枚札 あ 十六枚
「む」で始まる歌は百首のうち一首のみなので、選手は「む」と聞いた瞬間に下の句の札「きりたちのほる…」の札が特定できます。同様に、「す」「め」「ふ」「さ」「ほ」「せ」で始まる歌も一首ずつしかありません。
「うつしもゆ」は、友札(同じ音で始まる札)が二枚ずつあります。例えば「う」で始まる歌は「うかりける」「うらみわび」の二首で、取り札の特定には二字目まで聞く必要があります。「あ」で始まる歌が最も多く十六首あります。決まり字が一番長いのは「大山札」と呼ばれ、六字目まで聞かないと特定できません。
かるた会の練習に参加するには、まず百枚の取り札を次々に見て、決まり字をすらすら言えるようになることを目指します。歌の意味・背景なども含めて一首まるまる覚えようとすると、途中で挫折しやすいので、まず語呂合わせでよいので、百首の決まり字を覚えましょう。競技で読みを何度も聞くうちに歌を覚え、興味がわいたら意味を調べるとよいでしょう。
決まり字は試合中に変化します。例えば「き」で始まる歌は三首あり、「きり」(二字目で特定)、「きみがため は」、「きみがため を」の大山札(六字目で特定)です。もし「きみがため は」が先に読まれたら、その後は「きみがため を」の札は二字目の「きみ」で特定できます。さらに「きり」の札が読まれたら、「きみがため は」は「き」の一字で特定できます。六字目で取るのと一字目で取るのではスピードが全く異なります。選手は空札も含めて、試合中にどの札が読まれたのかをすべて覚えます。
競技かるたは記憶力の勝負と思われがちですが、実は「忘却力」も大切です。すでに読まれた札の位置を消去しなくては、後に友札が読まれたときのお手付きにつながります。一日に数試合連続して取る場合もあり、前の試合にあった札や位置を消去することも大切です。記憶とその消去で頭脳をフル回転させ、瞬発力、身体能力を駆使するこの競技を、私は「究極の頭脳スポーツ」と呼んでいます。
〇世界に広がる競技かるた
二〇〇一年、英国在住時にマインド・スポーツ・オリンピアードという頭脳スポーツ大会で競技かるたの紹介をしたのが、私の海外普及活動の最初です。これほどエキサイティングで面白い競技が外国人にとっても面白くないはずがない、日本人だけで独り占めするのはずるい、何より海外でも仲間が欲しいという思いで普及を続けました。二〇〇一年には海外選手人口は自分一人でしたが、今では世界十五カ国以上にかるた会があります。漫画『ちはやふる』がアニメ化され、世界中で配信された影響も非常に大きく、アニメで競技を知り、かるた会を立ち上げた国もあります。二〇一八、二〇一九年には海外から代表選手が参加する「おおつ光ルくん杯競技かるた世界大会」も近江神宮で開催されました。
海外では平仮名を覚える前に競技を始める人もいて、いろいろ苦心して札を覚えます。例えば「ちぎりきな…」という歌の取り札「すゑのまつやま」の「ゑ」が鶏の頭に似ていると感じ、「ちぎりき」⇒「チッキーリッキ―」⇒「チキンヘッド」⇒「ゑのある札」と覚えたという外国人選手もいます。
「競技かるたONLINE」は、二〇一九年に開発された携帯アプリです。画面サイズの制約で使える札の数は少ないですが、ルールは競技かるたと同じで、画面の札をタッチして取ります。オンラインで世界中の選手と対戦できるほか、レベルに合わせてコンピューターと対戦もでき、初心者にも競技選手にもお勧めです。コロナ禍で対面練習ができない期間、世界中の選手がこのアプリを活用し、オンライン世界大会も開催されています。
古来の和歌を使った世界に類のないこの日本独自の頭脳スポーツが、国境や言葉を超えさらに広がるよう願っています。
〇リンクの紹介
全日本かるた協会 https://www.karuta.or.jp (ルール、読み方など)
決まり字覚えハンドブック http://karuta.game.coocan.jp/download.html
競技かるたONLINE https://karuta.betacomputing.co.jp/
YouTubeリンク 競技かるた 第69期名人位・第67期クイーン位 決定戦
〇句会報告
講演後、句会も開かれました。 選者=ストーン睦美、長谷川櫂
◆ ストーン睦美 選
【特選】
日本によくぞ歌留多の残りけり 斉藤真知子
実朝の海おだやかや歌がるた 金澤道子
ことだまの飛び交ふ国や歌留多とる 長谷川櫂
煮凝や琥珀の中のジュラ紀めく 吉安とも子
【入選】
この星の一人となりて春を待つ 吉安とも子
初明り火の見櫓に大鴉 村山恭子
お手つきの下に恋あるかるたかな きだりえこ
ひらがなの国のはじめや歌かるた 齋藤嘉子
歌留多読むこゑ朗々と海越えて 葛西美津子
見つからぬ歌留多さがして二日かな 足立心一
かるたよりしづかに座るふたりかな 三玉一郎
歌かるた四人姉妹も老いにけり 金澤道子
黒文字のながながしきを花びら餅 大平佳余子
歌かるたこひに戸惑ふ指の先 きだりえこ
アメリカの空谺せよ歌かるた 長谷川櫂
歌留多とる永々詩歌の民ここに 西川遊歩
声となる前の声聴く歌留多かな 藤原智子
未だ恋を知らぬ手が取る歌留多かな 斉藤真知子
冬蒲公英言葉短き自己主張 好光幹雄
次の恋次の恋へとかるた取る 三玉一郎
幾万の色の塵とや鳥帰る 米山瑠衣
意味知らず百首覚へし歌留多かな 上田雅子
◆ 長谷川櫂 選
【特選】
声となる前の声聴く歌留多かな 藤原智子
歌留多取る君美しきアスリート 趙栄順
次の恋次の恋へとかるた取る 三玉一郎
大寒の畳のもゆる歌留多会 大平佳余子
天地に耳を澄ませるかるたかな 三玉一郎
【入選】
歌留多とる君の勇姿を見に行かん 木下洋子
エプロンをはづし加はる歌留多かな 金澤道子
かるた会たすき凛々しく出陣す 上田雅子
雪晴の空を飛び交ふ歌留多かな 藤原智子
わが札と決めしかるたは譲られぬ 宮本みさ子
春を待つこころ向き合ふかるたかな 三玉一郎
歌かるた実らぬ恋の札あまた 斉藤真知子
玉手箱ふたを開くれば歌かるた 大平佳余子
恋かるた競ふをんなに殺気あり 宮本みさ子
負けん気の五感全開かるた取る 西川遊歩
カルタ取る音の弾ける体育館 ももたなおよ
黒文字のながながしきを花びら餅 大平佳余子
老ひたれど五体すこやか歌留多取る 矢野京子
鍛へよと膝当てよこす歌留多の師 西川遊歩
耳澄ます耳うつくしきかるたかな 三玉一郎
君の手の一瞬早き歌留多かな 斉藤真知子
未だ恋を知らぬ手が取る歌留多かな 斉藤真知子
霜焼の手も飛び出す歌留多かな 藤原智子
初夢や敵の手中の恋かるた 宮本みさ子
アリゾナの空朗々と歌かるた 趙栄順
雪の道歌留多教室へと続き 藤原智子
現在ご活躍中の俳人・俳句研究者をお迎えして、俳句の未来を考えるHAIKU+。第6回は、俳誌「郭公」主宰の井上康明さんをお迎えして、11月20日にオンラインで開催されました。井上康明さんから当日のご講演の概要をいただきましたのでご覧ください。
俳句の魅力―飯田蛇笏よりー 井上康明
一 俳句の未来
「俳句の未来」をテーマにお話しできればと思う。俳句は、十七音と有季、季題季語を用いるという約束があり、しかも中世以来の歴史を負う文芸である。その制限のなかでどのように表現するかが問われ、作者はそれぞれの想像力によって独自な表現を求めていく。
私は、二十代の半ばに初めて俳句会へ参加、徐々にその俳句という不思議な文芸形式に親しんでいった。そのきっかけになったのは、飯田蛇笏の俳句であった。同年代の蛇笏の俳句を詠み、若々しく情熱的であることに惹かれて、俳句に興味関心を抱くようになった。
今回、その飯田蛇笏について考えることによって、未来への俳句について、何らかのヒントを受け取れるのではないかと思ったのである。その俳句人生の古さと新しさについて考えてみようと思う。
二 飯田蛇笏の生涯
まず、飯田蛇笏という人について、概略を述べることにする。
飯田蛇笏は、明治十八年四月二十六日、山梨県東八代郡五成村(ごせいむら)(現笛吹市境川町小黒坂(こぐろさか))に飯田家の長男として生まれた。本名は武治(たけはる)。早稲田大学に学び、中途で帰郷して家を継ぐ。大正年代、高濱虚子選の「ホトトギス」雑詠欄において活躍。その頃創刊された俳誌「キララ」の雑詠欄の選者となり、誌名を「雲母」とし主宰する。昭和七年、第一句集『山廬集』を四十七歳で刊行。昭和の戦争に前後して、両親、長男、次男、三男を、病没、戦死により亡くす。昭和三十七年十月三日、自宅で死去、行年七十七歳。飯田家は、四男龍太が継ぎ、「雲母」を継承主宰する。龍太の編集により蛇笏の第九句集『椿花集』(昭和四十一年)が刊行される。
蛇笏は、子供の頃から俳句に親しみ、生涯俳句を作り続けた俳人であった。有季定型の伝統俳句を詠み続けた蛇笏の根っこはどのようなものだったのか。
三 蛇笏の生涯の俳句
蛇笏の生涯の俳句を幾つかの句によって辿ることとする。
芋の露連山影を正うす 大正三年
これは蛇笏の代表句であり、唯一、文学碑となった作品である。碑は、甲府市芸術の森公園のなかにある。里芋の畠の葉の上に露があり、これが近景。遠景には山が連なり、その姿が一瞬、身を正す。山国の秋の爽やかな大気を遠近の構図によって表す。芋、露、連山、影、正しくすと多くの要素を、「芋の露」で切るという構成によって成立させている。二十九歳の作。
ある夜月に富士大形の寒さかな 大正三年
「ある夜富士に」という語り出しは、蛇笏が、大学時代、義太夫などに親しんだことを思い出す。
なつやせや死なでさらへる鏡山 大正四年
前書きに「一日山廬を出て偶々旧知某老妓に会す」とある。老妓が「鏡山故郷の錦絵」という文楽等で演じられる一節を三味線で弾く。「死なで」に味わい。
死骸や秋風かよふ鼻の穴 昭和二年
冷徹な目で亡骸を見つめ、秋風が蕭々と吹く。この句には長々と前書きがある。「仲秋某日下僕高光の老母が終焉に逢ふ。風蕭々と柴垣を吹き古屏風のかげに二女袖をしぼる」飯田家には、代々飯田家の仕事を担う家があった。古くから長く飯田家の家周りの仕事を担っていた。「下僕」とは率直な言い方だが、蛇笏には主人としての役割を果たす責任があった。一統を束ね、その上に立つ立場であったのだ。四十二歳の作。
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 昭和八年
軒に釣り忘れられた風鈴が、音を立てて鳴る。
草川のそよりともせぬ曼珠沙華 昭和十二年
ぺかぺかと午後の日輪常山木咲く 昭和十六年
次男が病没した年の秋の作。擬態語が蛇笏の異様な高揚を示す。常山木の花は、山麓などで、臙脂と白の混ざり合う地味な芳香のある花を開く。
古茶の木ちるさかりとてあらざりき 昭和十八年
茶の花は、秋の半ばから冬の初めにかけて、葉群の奥に小さな白い花を咲かせ散り継いでいく。この句は、加藤楸邨が、「最も賞味する一句である」と語ったという作。楸邨は、昭和二十三年冬蛇笏を訪れた。その時のことを龍太が書いている。龍太によると楸邨はこの句を挙げ、「一見地味な句だが、意外にけんらんとした詩心を秘め、自然観照の極を示す、いわば、鍛えあげた末の老艶の花を垣間見るような作ではないか」と語ったという。
ぱつぱつと紅梅老樹花咲けり 昭和二十二年
冬といふもの流れつぐ深山川 昭和二十八年
冬川に出て何を見る人の妻 昭和三十年
寒雁のつぶらかな声地におちず 昭和三十三年
靖国神社から句を乞はれて
御魂祭折から月の上るなり 昭和三十六年
亡くなる前年、長男、三男の魂が祀られる靖国神社から盂蘭盆会に句を求められた作。「折から月の」という素気ない表現に蛇笏の万感が籠められている。
山中の蛍を呼びて知己となす 同
亡くなる前年、童心が弾む。芥川龍之介死去の際の芥川への追悼句「たましひのたとへば秋の螢かな」も思い出す。螢のひとつは、芥川かもしれない。
いち早く日暮るる蟬の鳴きにけり 昭和三十七年
死の直前に詠まれた作、「日暮るる蟬」は、蜩を思う。蜩は生き急ぐかのように鳴き募る。
誰彼もあらず一天自尊の秋 昭和三十七年
辞世とされる句。龍太によって没後の遺句集『椿花集』の最後に置かれたことによって辞世とされた。破調、字余りの作。生きとし生けるものすべての命が尊い、この秋天の下で、と詠う。飽くまで人生の途上の姿勢を崩さなかったことを示す句だろう。
四 俳諧我観
飯田蛇笏は、大正二年、河東碧梧桐等の新傾向俳句に反駁し、「季題趣味」と「十七字韻」は俳句に不可欠と、地元新聞に「俳諧我観」という論を連載した。
大正元年十月二十七日、甲府市瑞泉寺において「峡中俳壇秋季大会」が開かれ、荻原井泉水、河東碧梧桐が選者として招かれ、蛇笏もこの大会に参加、これをきっかけに、翌年大正二年三月十一日から五月一日にかけ、「山梨毎日新聞」に十二回に亘って、新傾向に反駁する論を展開した。
蛇笏はまず何々庵某宗匠などと名乗る月並を否定。
人と語り、流れる雲を眺め、囀る鳥の声を聴き、心の奥に美的享楽の芽を生む「我」を認める。そして「我」は宇宙、人生に対して観照的態度をもって対し、芭蕉以来の季題趣味と結びついて俳句となるとする。
季題趣味によってこそ、「我」の刹那の感想が流露し、そこに個性の発露が見られ、芸術の威力を感じることが出来るだろう、と語る。
蛇笏は、「吾人は常に季題趣味を心に養ひ山川草木に対し、人畜鳥魚に対しー自然界の森羅万象、洞察を逞ふし実感を延べ心裡に深く印象せしめる。(略)心の奥底に潜在した「季題趣味」が意識域を領せんとするその時、我が俳句は成作せらるるのである」と述べ、「即ち季題趣味を離れて其処に俳句の存在は認められないのである」と断言する。さらに虚子の「平明にしてかつ余韻ある俳句」に共鳴し、「季題趣味」の要素を包含し、特別な一定な形式と約束を有する十七字韻でなければならない、と主張する。
五 飯田蛇笏「霊的に表現されんとする俳句」
「ホトトギス」大正七年五月号に蛇笏は、「霊的に表現されんとする俳句」を発表、その俳句観を述べた。
我等は我等の世界に生きて居る上に於いては、強く現実を観、之れを深く味い、根本的に生存の美を挙げたい信念から常に最善の世界を形作るべき懸命なる努力を持続しなければならぬ。この努力は軈(やが)て人間至上の能力の美である。此の努力が他へ及ぼす時其処に人間としての輝きが認められ、此の人間から生み出さるる文芸美術は我らが世界に置いて最も崇高な最も厳粛なものでなければならないのである。(略・以下の引用は抜粋)
初空や大悪人虚子の頭上に 虚子
雪解川名山けづる響かな 普羅
溺死ありおごそかに動く鰯雲 失名
これらは創作的態度に於いて各々作家が自然及び社会人生に対して現実そのものであるが儘に見ようとする在来の卑下なさもしい態度の外に人間至上の芸術的能力の美を社会人生に体現しようとする溌剌たる勇気ある個々の信念と努力をひそめて、偉大にして耀きある背景を具備しつつあるのを明らかに認める。かかる信念と情熱と相俟って至上芸術としての詩を俳句として認めることが出来るのである。
蛇笏は、人が懸命に生きることは素晴らしく、人間至上の美しさを示すことだと言う。そのように懸命に取り組む文学美術、芸術は崇高で厳粛なものだと語る。芸術活動が、人として最も尊い行為であることを自覚し、強い信念と情熱をもって活動することが俳句を至上芸術たらしめることになると言う。これが霊的に表現されんとする俳句であり、理想の俳句であると、蛇笏は語る。
早稲田大学時代、蛇笏は、「文庫」「新聲」といった投稿雑誌に新体詩を投稿し、小説にも手を染めていった。俳句とともに新体詩、小説を並行して創作、また自然主義の作家に親しみ、特に国木田独歩に傾倒したことを語っている。幅広い文学活動のなかから俳論は培われていったのだろう。
六 古典俳句について
飯田蛇笏は、古典俳句についてゆるやかな考えを持っていた。正岡子規が否定した月並についてもきっぱりと否定していない。例えば次のような句がある。
ありあはす山を身近かに今日の月 昭和三十六年
亡くなる前年の句、仲秋の名月にありあわせ、山がちょうどそこにあることよと詠う。周辺の山の存在を暮らしのなかに人臭く表現する。蛇笏が生涯居住した境川村には、幕末、北野道等という俳人が居た。当時甲斐の国には、越前から来た俳諧宗匠辻嵐外が居て、道等はこの嵐外の弟子「嵐外十哲」とされる俳人の一人だった。境川村から隣村へ通じる峠には、道等の句碑があり、それには「名月や有合せたる山と山」と彫られていた。蛇笏は、村ゆかりの俳人と俳句にあいさつを交わし、やがて黄泉へと旅立ったのであろう。
第一句集『山廬集』は、次の句で始まる。
もつ花におつる涙や墓まゐり 明治二十七年以前
昭和二十七年刊行の飯田蛇笏句集の自筆年譜には、この句が、九歳の時に作られた句であると語られている。蛇笏の父である宇作は、清水家から婿養子として飯田家に入った人だった。父の生家である清水家の門長屋では、旧派俳諧の句会が開かれ、蛇笏も参加していた。そんな折、蛇笏がこの句を作ると、そこに居た旧派の宗匠大須賀一山が、「もつ花に涙も落ちて墓まゐり」と添削した。しかし、後年、蛇笏は句集収録の際、そのまま収録したという。
このエピソードは、月並と言われる旧派と、蛇笏が推進する所謂新派との違いについて考えさせられる。
添削された句は、墓参りには悲しさが伴い、もつ花に思わず涙も落ちてしまうことだと、世の中の誰もが理解する通俗の常識を語る。それに対して蛇笏の句は、墓参りに思わず落とした涙の瞬間を描く。かけがえのない一度きりの一瞬を描く。その違いを際立たせるのが「や」の切字である。
七 蛇笏の芭蕉観
蛇笏は、「雲母」昭和四年一月号において「超主観的句境(イツトナクミノルクサバナ)」という一文を書いて自らと芭蕉の句について語っている。
芭蕉が自らの詩的圭角を徐々に除去していく過程について「実際に当って之を険してみる」と語る。まず貞享初年の「野ざらし紀行」について、
野ざらしを心に風のしむ身かな 芭蕉
は、「懸命の心をいささか露骨に詠わねばいられなかった」とする。やがて滑らかな詩情を醸した芭蕉の大成を物語る晩年の数句をあげるならと言って、
はる雨や蓬をのばす草のみち (元禄二)
大雪や婆ひとりすむ藪の家 (元禄四)
苣はまだ青葉ながらや茄子汁 (元禄七)
とこれらを挙げ、蛇笏は「客観に影をひそめた作者の主観的滋味」は「人心に迫る」と言う。しかし、蛇笏によれば、芭蕉のそれ以上の真骨頂は、次のような句だという。
幻住庵
旅癖や寝冷煩ふ秋の山 (元禄四)
青くてもあるべき物を唐がらし (元禄五)
秋ちかきこゝろのよるや四畳半 (元禄七)
其柳亭
秋もはやはらつく雨に月の形 (同)
昨日からちよつちよつと秋も時雨かな (同) 〈原句では、二つ目の「ちよつ」は繰り返し記号表記〉
蛇笏は、これらの句を「天地自然に融合する創作力の物我一如を示すところのもの、この醍醐味をさして俳諧境の極致と謂うべき」「其処にこそ千古を貫く俳諧至上の台を見、帰趨を爰に置くべき」とまで絶賛している。蛇笏のこの芭蕉についての判断は、芭蕉晩年の軽みへの共感、支持である。この蛇笏が認めた芭蕉の句「青くてもあるべき物を唐がらし」は、真っ赤な唐辛子を詠んで、謎解きのような味わいがあり、このひねりは、月並に通ずるようにも思われる。日常卑近な唐辛子を詠んでいるところが興深い。
「昨日からちよつちよつと秋も時雨かな」は、「秋もはやはらつく雨に月の形」の初案であり、俗語の口拍子を推敲していくところに妙味がある。時雨という伝統に連なる季語を日常軽やかな口語に取材して、より軽妙なことばの弾みとともに一句が詠まれている。その自在さに蛇笏は惹かれている。
八 蛇笏の正岡子規観
「俳句研究」昭和十五年九月号に蛇笏は「正岡子規随想―主としてその歪曲観をー」と題して子規の否定した成田蒼虬、桜井梅室、子規が言及した甲斐の近世俳人辻嵐外について、その句を挙げ、取り上げるべき点について語っている。嵐外については、
一輪の梅白きことさためけり 嵐外
十六夜の雨ながるゝや隅田川 同
など、天保俳句流の低調さは免れないが、子規も指摘するように作品にたしかなところがあり、理性、理知的な側面がおのずから流露を見せている、と言い、殊に「十六夜の」は、嵐外一代の傑作であるという。また、梅室、蒼虬については、
人もなき蚊屋に日のさす宿屋かな 梅室
蓬莱のだいだいあかき小家かな 蒼虬 〈原句では、二つ目の「だい」は繰り返し記号表記〉
について、天保的特質、地下的なもの、下情的なるもの、天保的主観味の揺曳する境地に、元禄にも天明にも存しなかった微にして妙なる独特の芸境がある、と語る、さらに子規が「野卑なる意匠と野卑なる語句」と否定した梅室の
今朝は茶をあとへまはして福わかし 梅室
などについて、一種の写実境であり、芸術圏外のものとして葬りさることは出来ないと言う。更に蛇笏は甲斐の近世末、天保俳人を引用、
はつ秋や柄杓のかろき水遣ひ 可轉
花さいて冬になりしぞ茶の畠 一斎
夕涼み生れかはらば何になる 漫々
このような句は現代の文壇人俳句に通じる魅力があると言い、新聞紙上に掲載された文人俳句を引く。
生きのびて又夏草の目にしみる 徳田秋声
都をば百里はなれて昼寝かな 海野十三
夏芝居泣いて暑さを忘れけり 岡本綺堂
蛇笏によるとこれらの文壇人俳句は、子規が否定した天保の俳諧味、元禄でも天明でもなく、天保俳壇独自の弱弱しくはかなげな芸術味と通底するという。蛇笏は、月並俳諧を検証、独自の味わいを探る。
「雲母」昭和十一年十一月号に発表した「天保俳壇に於ける一分野観」においては、天保時代の諸作品が、
現実的にして卑近なる耽美派的な人間くさいねばりを顕現する境地は、遉に時代の流れに負ふところの近代的現象であるに違ひなかったのである。
と語る。蛇笏は、天保俳諧の吟味に近代へ繋がる内容を見定めようとしている。
九 高濱虚子について
蛇笏は、高濱虚子について、
明瞭に云ふが、僕が俳句方面に於ける師なるものは高濱虚子あるのみである。(「改造社版『續俳句講座』の『明治以後俳人系譜』誤謬―主として自分に関してー」)「雲母」(昭和九年七月号)
と生涯で唯一の師であると語る。その死去に際しては、追悼文において、徳富蘇峰が芭蕉を讃えそ
生涯が「順応あるのみ」だったと語ったことを引きながら、
この順応という言辞が持つ意味は、虚子翁を論ずる場合でも、翁に近接し翁を深く知り抜いた者にとっ
ては実に適合する言辞だと私は思うのである。「高濱虚子先生を偲ぶ」(「俳句」昭和三十四年五月号)
と語っている。すべてに「順応した」と語る蛇笏の虚子観は、俳人であり、「ホトトギス」の主宰者であり、また長く伝統俳句を牽引した虚子という大いなる存在への最大の敬意の表明ではないかと思われる。
蛇笏の虚子の俳句についての鑑賞は、濃やかにして厳しい姿勢を思わせる。蛇笏の俳句鑑賞は、大正年代から始まり昭和三十三年までつづいたが、そのすべての期間で蛇笏は、高浜虚子の句を取り上げている。蛇笏の俳句生活は、虚子の俳句を鑑賞することとともにあったと言っても良い。この間、鑑賞批評も文學である、という姿勢に貫かれている。例えば、
先人も惜みし命二日灸 虚子
について、「主観的作句の深刻にして強く、ゆとりある所謂悠久性に富む句境をあらわした作」という。これは、几董の「二日灸花見る命大事なり」を踏まえて純主観的作品として一代の作の中に光を放つ句、と
評価する。しかし、次の
春風や闘志いだきて丘にたつ 虚子
については、作者の主観の露骨さを示し、喜怒哀楽の高潮を偽りなく表現するが、「二日灸」の句以上の価値はない、と指摘する。
蛇笏は、虚子の俳句に対して対峙するという姿勢で臨んでいる。
十 蛇笏と芥川龍之介
蛇笏と芥川龍之介は生涯相まみえることはなかったが、俳句について語りあう手紙によるやり取りがあった。その交流の余韻は、龍之介自裁の後の蛇笏の生涯に亘っていく。
昭和二年七月二十四日、芥川龍之介は田端の自宅で、自ら最期をとげる。その約七ヶ月前、芥川は遺書のような『梅・馬・鶯』を刊行、蛇笏にも贈られた。蛇笏は「その後の虚子、龍之介、二氏の俳句」(「雲母」昭和二年三月号)において、このなかの発句七十四句のなかから数句を鑑賞、進境を示すと評価。しかし、次の一句については、異議を唱えた。
蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな 我鬼
この句について蛇笏は、かつてこの句は、
鉄条(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな 我鬼
であったが、今回の改作によって、「調子をなだらかに落として却って失敗した」と言い「似るがいけないと思う」。所謂だれに落ちたのである、と蛇笏は否定する。
「鉄条に似て蝶の舌暑さかな」という句は、かつて大正八年「ホトトギス」雑詠欄に「我鬼」の署名で掲載された。蛇笏は、同年七月号の「雲母」誌上でこの句を「主観的写生」の作であり、霊的な表現として「無名の俳人によって力作さるる逸品」であると称讃したのだった。やがて蛇笏は「我鬼」が芥川であることを知って、二人は書簡を交わすようになっていったのであった。蛇笏は、次のように述べる。
この句のいいところは調子をできるだけ緊張させ、矢継ぎ早にすさまじく読者に迫るところにあるので、思い設けない奇なあの鉄条を蝶の舌なりと見る作者の感激は、壊してはならない機微なところで、その鋭い針の先のような所に、明敏群を抜く芥川氏の感受性の働きがあり、当代一流の技巧家たる氏の叡智によって表現さるるところとなった点に、俳句としての傾向を見、芥川其の人の所謂大正の「調べ」として哀惜措きがたいものとしたいのである。
「雲母」昭和二年三月号
この記事に対して芥川は蛇笏に書簡を送り、「に似る」という粘るような感じが暑さを生かすのではないかと思ったと反論を行ったが、蛇笏はその主張を変えることはなかった。その数か月後、芥川は七月二十四日自裁。蛇笏はその年の「雲母」九月号に「芥川龍之介氏の長逝を深悼す」と前書きを付して「たましひのたとへば秋のほたる哉」と発表、その死を追悼したのだった。
芥川の死後七年の昭和九年、「俳句研究」八月号に、蛇笏は芥川を追悼して「河童供養」一連の俳句を発表、そのなかに次の一句がある。
ほたる火を唫みてきたる河童子 蛇笏
妖怪である河童の子が、頬のなかに螢の火をふくんでやって来たという光景。蛇笏は、想像力によって物語を紡ぎ、童心に溢れた妖しい河童の子を描いている。
十一 飯田蛇笏という俳人
蛇笏という俳人は生涯に亘って幅広い俳句を詠み続けた俳人であった。その俳句観は、古典俳句に対するように柔軟であった。かつ流行に敏感、興味関心の触角を広く大きく伸ばし、常に新しい俳句を求めていた。なかでも生涯の師高濱虚子に対しては、真剣にその作品評価に向かっていった。
蛇笏にとって有季定型、季題趣味と約束による十七音律は、俳句活動すべての前提であり絶対であった。
蛇笏は、初心者向けの入門書で、大切なことは、金輪際句作することだと語る。名句を求めてゆるやかにふところ広く構え、魂に触れるような懸命な句作が生み出す迫力を蛇笏は求めている。そのような蛇笏の姿は、わたしたちの俳句の未来に何らかのヒントを与えてくれるのではないか。先の「俳諧我観」で蛇笏は、新傾向俳句は徒労であり、やがて衰滅の時期を迎えるだろうと語っている。
さまざまなジャンルから講師をお迎えして季節や文化に関わるお話をお聞きする「きごさい+」。今回の講師は、競技かるたの選手として活躍され、世界各地で競技かるたを広めていらっしゃるストーン睦美さんです。名人位・クイーン位決定戦の行われる1月、はるか米国バージニア州より、Zoomでご講演いただきます。ぜひご参加ください。講演の後、句会もあります。(選者:ストーン睦美、長谷川櫂)
日 時:2023年1月22日(日) 午前10:00~12:30
演 題 : 百人一首~競技かるたの世界~
講 師 : ストーン睦美(ストーン・むつみ)
プロフィール:
福井県敦賀市生まれ。アメリカ在住。競技かるたA級六段。ワシントンDCいにしへ会主宰。
日本で九年間競技かるたに取り組んだ後、結婚で1998年に米国移住。その後、英国、カザフスタン、タイ、中国に在住中、個人の活動としてかるた会設立や普及を行う。2013年から再び米国。現在は、自宅での練習会実施のほか日本語クラスやイベントで競技かるたの紹介をボランティアで行うほか、全日本かるた協会普及指導部副部長・海外窓口として、世界各地の競技かるた選手の取りまとめ役を担っている。
*講師からのひと言
競技かるたは、小倉百人一首のかるた札を使う1対1のゲームです。漫画、アニメや映画『ちはやふる』のヒットもあり、今では日本だけでなく世界各地に競技かるたクラブがあり、外国人有段者も増えています。今回は、「競技」の道具としての百人一首の捉え方、選手がどう100枚の取り札を覚えるのか、競技陣内の札の場所を短時間でどう覚えるのかなど、文学とは異なる視点からの百首の短歌との付き合い方をご紹介したいと思います。
9:45~ Zoom入室開始
10:00~11:15 講演
11:20~11:50 句会(選句発表)
11:50~12:30 長谷川櫂(きごさい代表)との対談、質疑応答
<申し込み案内>
1. 参加申し込み 1/14(土)まで
2. 参加費:きごさい会員:1000円、会員以外:2000円、会費の振込先は自動確認メールでお知らせします。
3.ズームのURL、句会の入力フォームのURLは申し込みと入金された方に1/18頃までにメールで配信します。かならずご確認ください。
4.句会:当期雑詠5句。前日1/21(土)15時までに所定のフォームから投句。選者:ストーン睦美、長谷川櫂ただし句会の参加は自由です。
5、ズームを使ったオンライン講演会・句会です。1/14(土)までに参加申し込みをすませ、1/18頃メールで配信する「ズーム入室URL」などの案内をご確認いただかないと当日視聴できません。
きごさい歳時記の植物季語の科学的見解として、約千の解説を寄稿された東海大学教養学部の藤吉正明先生が、今度は動物季語の科学的見解を寄せてくださいました。一回目は哺乳類の26の季語です。
狐の子(きつねのこ) 獣交む(けものつるむ) 春の鹿(はるのしか) 猫の恋(ねこのこい) 孕み鹿(はらみじか) 熊穴を出づ(くまあなをいづ) 馬の仔(うまのこ) 落し角(おとしづの) 猫の子(ねこのこ) 蝙蝠(こうもり) 夏野の鹿(なつののしか) 鹿の袋角(しかのふくろづの) 馬肥ゆ(うまこゆ) 猪(いのしし) あなぐま 鼬(いたち) 兎(うさぎ) 羚羊(かもしか) 狐(きつね) 熊(くま) 狸(たぬき) 貂(てん) 麕(のろ) 冬の鹿(ふゆのしか) むささび 熊穴に入る(くまあなにいる)
以上の26季語の解説が新しくなりました。ぜひ、お読みください。今後は、鳥類や魚類、爬虫類、昆虫などについての改訂も予定しております。
なお、改訂にあたって引用及び参考にした文献は以下の通りです。
・秋篠宮文仁・小宮 輝之(監)(2009)フィールドベスト図鑑 日本の家畜・家禽、学習研究社
・阿部永(監)(2005)日本の哺乳類 改訂版、東海大学出版会
・今泉忠明(監) (2003)学研の図鑑 動物、学習研究社
・金子之史(2020)哺乳類の生物学一分類(新装版)、東京大学出版会
・熊谷さとし・安田 守 (2011)哺乳類のフィールドサイン 観察ガイド、文一総合出版
・小池伸介・佐藤 淳・佐々木 基樹・江成 広斗(2022)哺乳類学、東京大学出版会
・小宮輝之(監)(2002)フィールドベスト図鑑 日本の哺乳類、学習研究社
・小宮輝之・薮内 正幸(2016)くらべてわかる哺乳類、山と渓谷社
・新村出(2009)広辞苑 第六版、岩波書店
・山口喜盛(2017)フィールドで出会う哺乳動物観察ガイド、誠文堂新光社
・渡辺健太郎(翻訳)(2005)ネイチャーハンドブック 世界哺乳類図鑑、新樹社