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5月4日(水) ズームできごさい+ 気候の危機と俳句の危機

きごさいBASE 投稿日:2022年3月8日 作成者: dvx223272025年9月28日

さまざまなジャンルから講師をお迎えして、季節や文化に関わるお話をお聞きする「きごさい+」
今回の講師は、環境社会学者で俳人の長谷川公一さんです。どうか奮ってご参加ください。
講演の後、句会もあります。(選者:長谷川公一、長谷川櫂)

演 題 : 気候の危機と俳句の危機

講 師 : 長谷川 公一 (はせがわ・こういち)
社会学者。尚絅大学大学院特任教授。東北大学名誉教授。気候危機、原発・エネルギー問題などを社会学的に研究。
1954年、山形県上山市生。現在、国際社会学会理事、公益財団法人みやぎ・環境とくらし・ネットワーク(MELON)理事長など。
『環境社会学入門』(ちくま新書、2021年)、『脱原子力社会へ』(岩波新書、2011年)ほか。日本の環境運動や気候危機問題への草の根的・地域的な取組などについて、国際的に発信。俳号・冬虹(とうこう)、古志同人。句集『緑雨』(2006年)。

講師のひと言
俳句の大前提たる四季の区別。しかし気候危機の深刻化にともなって、日本では次第に夏と冬は長く、春と秋は短くなると予測されています。産業化がもたらした二酸化炭素などの排出量増大にともなう気候危機の深刻化は、俳句の存立基盤そのものをも大きく揺るがせるリスクがあります。気候危機は持続可能な未来に立ちはだかる大きな壁の一つです。気候危機のメカニズムと予想される影響、深刻さ、対応の難しさなどをわかりやすく解説します。

日 時:2022年5月4日(水)13:30~16:00  (13:15~ Zoom入室開始)
13:30~14:45  講演
14:50~15:20  句会(選句発表)
15:20~16:00  長谷川櫂(きごさい代表)との対談、質疑応答

<申込み案内>
1. 参加申し込み受付 4/24(日)まで:  ここをクリック して申込みフォームからお申込みください。
2. 参加費:きごさい会員:1,000円  会員外:2,000円 会費の振込先は自動確認メールでお知らせします。
3.ズームのURL、句会案内(投句と選句フォーム)申込みと入金された方に4/30までにメールで配信します。かならずご確認ください。
4.句会:当期雑詠5句 前日投句です。 選者:、長谷川公一(冬虹)、長谷川櫂
前日5/3(木) 17時までに所定のフォームから投句。ただし句会の参加は自由です。

ズームを使ったオンライン講演会です。4/24(日)までに参加申し込みをして、4/30頃メールで配信するズーム入室URLなどの案内をご確認いただかないと、当日視聴できません。よろしくお願いいたします。

きごさい+/時空を超える『源氏物語』あらまし

きごさいBASE 投稿日:2022年2月17日 作成者: dvx223272025年9月25日

 1月29日、講師に俳人の毬矢まりえさん、詩人の森山恵さんご姉妹をお迎えして「きごさい+」が開催されました。『源氏物語 A・ウェイリー版』全四巻を出されたご姉妹。この美しく画期的な訳書は第一巻発刊時から注目され、2020年のドナルド・キーン特別賞を受賞されました。
 紫式部とウェイリーと時空を超えてご姉妹で再創造された『源氏物語』、その魅力と文学的な意味を堪能したご講演でした。ご姉妹から概要をいただきましたのでご覧ください。

時空を超える『源氏物語』
紫式部、アーサー・ウェイリー、芭蕉へ

               毬矢 まりえ
               森山 恵

Ⅰ.『源氏物語』、ウェイリー訳『源氏物語』との出会い
 まず、幼い頃に百人一首との出会いがありました。なかでも好きだった歌「めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かな」。この歌人が、『源氏物語』という物語の作者、紫式部と知ります。そして十代半ばから源氏物語を読み始めました。最初は母の書棚に並んでいた谷崎潤一郎訳、それから与謝野晶子訳、円地文子訳、古典原典と読み進めていったのです。
 アーサー・ウェイリー訳『源氏物語The Tale of Genji』との出会いは、大学院で恵が研究していた小説家ヴァージニア・ウルフを通してでした。彼女の友人であるイギリス人のオリエンタリスト、アーサー・ウェイリーが、いまから約100年前、世界で初めて『源氏物語』を英語全訳したと知ったのです。語学の天才である彼は独学で日本語を学び、約十年でこの偉業を成し遂げました。1925年に第一巻が出版されるや、文壇の大評判となります。「人類の天才が生み出した十二の名作のひとつ」と原作も翻訳も激賞され、『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』『失われたときを求めて』などと並び称され、一躍世界文学と認められました。レディ・ムラサキの、世界の文壇への鮮烈なデビューでした。

Ⅱ. 『源氏物語 A・ウェイリー版』の戻し訳/らせん訳
様々な経緯を経て、この作品を「戻し訳しよう!」と決意した私たち。なんとか引き受けてくれる出版社、編集者を見つけ、約3年半の訳業が始まりました。翻訳の上で、とくに工夫したのは次の点です。
① ルビ
ルビは視覚的に一瞬で重層的なイメージが創り出せる日本語特有の表現だと思います。漢字にカタカナ、現代日本語に古語、
カタカナに現代語・古典語など、ルビを細かく使い分けました。1000年前の平安時代、100年前のイギリス、現代の日本、それぞれの言語・文化の多層的イメージを読者に伝えたかったのです。
② カタカナ
登場人物の名前をカタカナで表記しました。
どこの国か、いつの時代か、限定されない新しい源氏物語を創造したい。それが私たちの願いでした。ゲンジ、トウノチュウジョウ、レディ・コキデン、プリンセス・アオイ……。
人名だけでなく、硯や障子、数珠、琵琶、琴、横笛といった事物も、日本の古典世界に訳し戻さず、平安時代から解放しようとしました。レディやプリンスは馬車に乗り、ワインを片手に愛の言葉を交わし、フルート、リュートで音楽を奏でます。どの単語をどう訳すか、一語一語悩み迷い、二人で話し合いました。

Ⅲ.ウェイリー源氏の和歌について
 ウェイリーは詩人でもありましたから、物語中の和歌、詩の重要性をよく理解していたと思います。けれども基本的には和歌を韻文としては訳さず、「~という詩を詠みました」「~と詩で答えました」など、見事に訳文に織り込んでいます。その代わり、その部分が詩であることが伝わるよう、ウェイリーはさまざま手法を用いています。そのひとつが「本歌取り」ともいうべき形です。
① シェイクスピア
一例として、シェイクスピアのソネット18番を挙げたいと思います。10帖「賢木」で光源氏と頭中將が交わす歌です。原典の歌は、
・それもがとけさひらけたる初花に劣らぬ君がにほひをぞ見る
・時ならでけさ咲く花は夏の雨にしをれにけらしにほふほどなく
ウェイリーはこの和歌を、シェイクスピアの有名なソネット18番の言葉を借りて翻訳しています。
“Not the first rose, that but this morning opened on the tree, with thy fair face would I compare.”
“Their time they knew not, the rose-buds that today unclosed. For all their fragrance and their freshness the summer rains have washed away.”
・あなたの美しい顔は、今朝咲き初めたファーストローズにも比べられようか
・今朝開いた薔薇のつぼみは、自らの時を知らなかったのです。その香気も瑞々しさも、夏の雨が洗い流してしまいましたから
(『源氏物語 A・ウェイリー版』拙訳)
シェイクスピア ソネット18番の第一連は、
Shall I compare thee to a summer’s day?
Thou art more lovely and more temperate:
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer’s lease hath all too short a date;
君を夏の一日に喩えようか
君はさらに美しくて さらに穏やか
夏の荒々しい風は可憐な蕾をゆさぶるし
それに夏はあまりにも短いあいだしか続かない
first rose, buds, compare, summer などの単語を含む訳文から、シェイクスピアの有名なソネットを想起せずにはいられません。
② 『源氏物語』の文学的重層性
 紫式部の文章そのものにも、重層性があるのです。この一場だけでも、たとえば頭中将の歌は紀貫之の本歌取りになっていますし、その他白楽天の漢詩、催馬楽の「高砂」、史記など、いくつもの言葉が歌の前後に引用、言及されています。ウェイリーは白楽天の翻訳者でもありますから、注をつけるなどして紫式部の文学の重層性も読み取って読者に示しています。

Ⅳ. 芭蕉と源氏物語
 さて、江戸の俳人松尾芭蕉の俳句にもまた、『源氏物語』を読み取ることができます。芭蕉は『嵯峨日記』に記述に見られる通り、『源氏物語』を愛読していました。芭蕉の師・北村季吟は源氏物語の注釈書『湖月抄』を著した学者でもありましたから、芭蕉も影響を受けていたでしょう。たとえば、
曙はまだむらさきにほとどきす
 芭蕉の頭には当然、清少納言『枕草子』があったと思います。
 けれど前書きに「(……)暁 石山寺に詣。かの源氏の間を見て」とあります。「むらさき」は紫式部へのオマージュでもあったのです。また「おくのほそ道」の冒頭部には、「弥生も末の七日、曙の空朧ゝとして、月は在明にて光をさまれる物から……」とあります。これは『源氏物語』の「帚木」帖と呼応しています。
『源氏物語』原文と比較して、他に3句例を挙げたいと思います。
夕顔のみとるるや身もうかりひよん (続山の井)
寄りてこそそれかとも見めたそがれにほの〲見つる花の夕顔(『源氏物語』「夕顔」帖)
花の顔に晴うてしてや朧月(続山の井)
いと若う をかしげなる声のなべての人とは聞えぬ、朧月夜に似る物ぞなきと(『源氏物語』「花宴」帖)
笋や雫もよその篠の露 (続連珠)
御歯おひいづるに食ひあてむと、たかなをつと握りもちて、雫もよよと食ひぬらし給へば(『源氏物語』「横笛」帖)

Ⅴ. 結論
 千年前に紫式部が書いた『源氏物語』には、ご紹介した場面だけでも古今集の紀貫之、白楽天の漢詩、催馬楽、中国の歴史書『史記』が引用されていました。350年前の芭蕉にもまた、その『源氏物語』をはじめ、白楽天や杜甫などの漢詩、万葉集、古今集などの古典が響いています。そして100年前のアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』にも、シェイクスピアなどイギリス文学やヨーロッパ文学、白楽天の言葉までが重ねて翻訳されているのです。普遍的な作品には、こうした文学的重層性があるのではないでしょうか。
 私たちも多層性を意識し、その多声を反映した作品にしたいと言葉を探し、推敲し続けました。この翻訳を私たちは仮に「らせん訳」呼び、言葉の創造に挑みました。哲学者ヘーゲルは、歴史は「らせん的に発展する」と説いています。上からはただの円ですが、横から見ると上方へと向かう「らせん」。ヨーロッパの言語・文化を潜り、時空を超えた『源氏物語』。その物語を、単なる「戻し訳」ではなく「らせん的に」再創造したかったのです。もちろん、非力な私たちにどこまでそれが成せたか……心もとなくありますが、能う限りを注ぎました。少しでも読者の方々に感じていただけるものがあれば、幸せに思います。
 長谷川櫂先生には、第一巻刊行のときから拙作の本意と価値を見抜いて、励ましの言葉を送っていただきました。
 皆さま長時間拙い話を聞いていただき、ありがとうございました。     (了)


ご講演後、句会も開かれました。
句会報告   選者=長谷川櫂、森山恵、毬矢まりえ
◆ 長谷川櫂 選
【特選】
いくとせの春にほそりし九十九髪      川村玲子
わが胸に春匂ひたつ一書かな        葛西美津子
読みさして春の重みを膝の上        葛西美津子
春の夢目覚めぬままに一生過ぐ       上田忠雄
うたた寝の源氏の君か花びら餅       澤田美那子
【入選】
赤子眠る春のささやき聞きながら      趙栄順
春節や天地自在に龍の舞          木下洋子
春はすぐそこに苺は大福に         澤田美那子
冬ごもり六条御息所恐ろしき        上松美智子
白梅や老神父よりエアメール        毬矢まりえ
春立つや雪より寒き雨の降る        澤田美那子
風花や生死のあはひ隔てなく        藤英樹
蝋梅は四方八方ひかりかな         藤原智子
梅の香や道通さじと石一つ         花井淳
日向ぼこ昔小町と言ひ合うて        木下洋子
シャイニングプリンスようこそ千年後の春へ 上田雅子
白梅と紅梅といふ姉妹あり         三玉一郎
風花のその一片のやうな恋         藤英樹
痛きほど固き莟は白梅か          葛西美津子
春霞となりゆく人やつくも髪        川村玲子
時々は猫の入りくる冬ごもり        飛岡光枝

◆ 森山恵 選
【特選】
大白鳥はや線になり点になり        高橋慧
初雀若紫を訪ふならむ           中丸佳音
夢の世の岸をはるかに流し雛        長谷川櫂
シャイニングプリンスようこそ千年後の春へ 上田雅子
白梅と紅梅といふ姉妹あり         三玉一郎
【入選】
大寒の竹百幹の影真直ぐ          中丸佳音
バラ線のこの穴くぐり恋の猫        宮本みさ子
雪兎この世に赤き実をふたつ        飛岡光枝
絵屏風や衣摺れの音の行き交ひぬ      高橋真樹子
日脚のぶ雀目白とうち混じり        澤田美那子
水仙の二本ばかりを文机          田中益美
書く人の魂千年の春空に          越智淳子
手紙待つ日々過ぎにけり冬木の芽      田中益美
一滴の墨の滲みや春の雪          上田忠雄
人の世へ涙をこぼす屏風かな        三玉一郎
夢の世を流るる河へ流し雛         長谷川櫂
蝋梅は四方八方ひかりかな         藤原智子
山眠りながらときどき笑ひたる       藤原智子
梅の香や道通さじと石一つ         花井淳
薄氷光の音をたてて消ゆ          葛西美津子
椿落つただ窓開けただけなのに       金澤道子
うたた寝の源氏の君か花びら餅       澤田美那子
有明の寒月全きまゝに落つ         足立心一
時々は猫の入りくる冬ごもり        飛岡光枝

◆ 毬矢まりえ 選
【特選】
几帳より洩れくる光寒牡丹         花井淳
初雀若紫を訪ふならむ           中丸佳音
わが胸に春匂ひたつ一書かな        葛西美津子
書く人の魂千年の春空に          越智淳子
梅の香や道通さじと石一つ         花井淳
うたた寝の源氏の君か花びら餅       澤田美那子
読初に挑む二度目の源氏かな        上田雅子
【入選】
母の手が金粉降らす貝合せ         川村玲子
春薫る石山寺の苞の伽羅          越智淳子
大白鳥はや線になり点になり        高橋慧
雪兎この世に赤き実をふたつ        飛岡光枝
絵屏風や衣摺れの音の行き交ひぬ      高橋真樹子
橋の上すれ違ひしは佐保姫か        中丸佳音
母の声聞きたき朝や花ミモザ        川村玲子
読みさして春の重みを膝の上        葛西美津子
小夜時雨ジャズの粒立つ旅の宿       畝川晶子
花吹雪舞ふや公達風の袖          越智淳子
シャイニングプリンスようこそ千年後の春へ 上田雅子
着ぶくれの園児圧しあふ乳母車       足立心一
白梅と紅梅といふ姉妹あり         三玉一郎
半仙戯交互にゆらす姉妹かな        三玉一郎

恋の俳句大賞(2021年後期)は石浜西夏さん

きごさいBASE 投稿日:2022年2月11日 作成者: dvx223272022年2月11日

 恋の俳句大賞(2021年後期)は石浜西夏さんの次の句に決まりました。石浜さんにはクリストフル社の銀の写真たてを賞品としてお贈りします。

【大賞】
はるのゆきはたちのきみが舞いおりる 石浜西夏
【受賞者のコメント】
はたちか十九か、数字で悩みましたが年齢と一目でわかる『はたち』に。「恋」。苦手なジャンルですが、取り組んでみると色々な感情が込み上げてきて止まらなかったです。一度門前で挫けた俳句の道に、励みをいただきました。大賞を、本当にありがとうございました。

☆村松二本 選
【特選】
立春大吉鬼に恋していいですか       村上ヤチ代
蝋梅の香りを歩く二人かな         青沼尾燈子
告白は直訳めいて冬の虹          水野大雅
【入選】
花街に女のかざす時雨傘          山田蹴人
マフラーを巻かれそのまま腕の中      茂る
雑踏に君の笑顔やクリスマス        倉森信吉
偶然を恋の味方に春の風          矢作 輝

☆趙栄順 選
【特選】
右側の手だけだんだんあたたまる      瀧田絆菜
われ映る君の瞳見たしライラック      山下 守
窓に雪とける二人の時間かな        城内幸江
はるのゆきはたちのきみが舞いおりる    石浜西夏
恋を知る少女金魚にうちあけし       高津佳子
【入選】   
立春大吉鬼に恋していいですか       村上ヤチ代
石鹸玉あなたへ息が続かない        三玉一郎
ただ横に居るだけでいい日向ぼこ      髙井珠佐
失恋のベリーショートや冬りんご      鹿沼 湖
同じ月観ている君へLINEして        横山理恵子

☆長谷川櫂 選
【特選】
秋日影イヤホンひとつ肩ならべ       紫檀
泣いて泣いて泣いても生きていた夏     鈴野蒼爽
はるのゆきはたちのきみが舞いおりる    石浜西夏
【入選】
君がゐて僕等二人の聖樹かな        円美々
三日月と金星と僕冬の恋          八田昌代
退屈な男と女春炬燵            武田百合
ありがとうは別れの言葉チューリップ    熊谷温子
亡き妻を想う父の詩冬の雲         宮崎江美
逢いたくて逢いたくなくて雪が降る     野原めぐみ
石鹸玉あなたへ息が続かない        三玉一郎
雪が降るあなたの肩の向こう側       野原めぐみ
ヴィオラヴィオラいつ振り向いてくれますか 石浜西夏
手花火やバケツの底に溜まる恋       渡辺鮎美

『大人も読みたい こども歳時記』増刷、11刷に

きごさいBASE 投稿日:2022年1月17日 作成者: dvx223272022年1月17日

 『大人も読みたい こども歳時記』(長谷川櫂監修、季語と歳時記の会編、小学館)が2014年発売以来、11刷になります。今回3,000部の増刷が決まって累計部数は3万3,000部となります。

1月29日(土) ズームできごさい+ 時空を超える『源氏物語』

きごさいBASE 投稿日:2022年1月15日 作成者: dvx223272025年9月28日

さまざまなジャンルから講師をお迎えして、季節や文化に関わるお話をお聞きする「きごさい+」
今回の講師は、俳人の毬矢まりえさん、詩人の森山恵さんご姉妹です。 魅力的なお話、どうか奮ってご参加ください。 講演の後、句会もあります。(選者:毬矢まりえ、森山恵、長谷川櫂)

演 題 : 紫式部からアーサー・ウェイリー、芭蕉へ――時空を超える『源氏物語』

講 師 : 毬矢 まりえ (まりや・まりえ)
森山 恵 (もりやま・めぐみ)

毬矢まりえ
俳人、評論家、翻訳家。俳人協会会員。銀化同人。国際俳句交流協会実行委員。NHK World TV Haiku Masters 選者。評論集に『ひとつぶの宇宙』(本阿弥書店)。共訳『源氏物語 A・ウェイリー版』全4巻(左右社)にて2020年ドナルド・キーン特別賞受賞。

森山恵
詩人、翻訳家。詩集に『夢の手ざわり』『エフェメール』(ふらんす堂)『みどりの領分』『岬ミサ曲』(思潮社)。訳書に『源氏物語 A・ウェイリー版』(左右社)、ヴァージニア・ウルフ『波』(早川書房)。NHK World TV Haiku Masters 選者。

講師のひと言
千年前の「源氏物語」。百年前この作品に魅せられ、はじめて英語全訳をしたのはイギリス人アーサー・ウェイリーでした。「ザ・テイル・オブ・ゲンジ」は名訳を謳われ、ヨーロッパ中で賛嘆されます。私たち姉妹はシャイニング・プリンス光源氏を巡る物語世界を、現代日本語に「戻し訳」いたしました。三百五十年前の芭蕉もまた源氏を愛読し、俳句にはその魅力が息づいています。時空を超えるウェイリーと芭蕉の「源氏物語」についてお話できたらと思っています。

日 時:2022年1月29日(土)13:30~16:00  (13:15~ Zoom入室開始)
13:30~14:45  講演
14:50~15:20  句会(選句発表)
15:20~16:00  長谷川櫂(きごさい代表)との対談、質疑応答

ここにも『こども歳時記』

きごさいBASE 投稿日:2021年12月21日 作成者: dvx223272021年12月23日

 以前、豊洲小学校で使われている『大人も読みたい こども歳時記』(小学館 1600円+税、長谷川櫂監修 季語と歳時記の会編著)を紹介しましたが、今度は第二亀戸小学校の図書室の俳句コーナーを紹介いたします。ここの本棚にも『大人も読みたい こども歳時記』が八冊ほど見受けられます。この他、各教室にも一冊ずつ置かれているそうです。

授業で活躍する『こども歳時記』

きごさいBASE 投稿日:2021年12月3日 作成者: dvx223272021年12月7日

  写真は江東区の豊洲小学校で使われている『大人も読みたい こども歳時記』です。(小学館 1600円+税、長谷川櫂監修 季語と歳時記の会編著)
写真の提供は日本学校俳句研究会代表の小山先生、「今日、授業しに来ている江東区の豊洲小学校、こども歳時記が児童数分用意されていました。どこの学校でもわかりやすい、写真がカラーであると好評です。」

11月 五島高資さんのHAIKU+ 報告

きごさいBASE 投稿日:2021年12月1日 作成者: dvx223272021年12月1日

11月14日、俳人で俳句スクエア代表の五島高資(ごとう・たかとし)さんをお迎えして、オンラインで「HAIKU+」が開催されました。当日は五島さんの深い考察のお話とその後の参加者との質疑応答で予定の時間も過ぎるほどでした。五島さんから当日のご講演の概要をいただきましたのでご覧ください。

近代俳句の超克 「切れ」再考
五島高資
緒 言
数年前に刊行された「文藝春秋」臨時増刊号の「美しい日本語・言葉の力を身につける」という特集では、一一六篇の書き下ろしが掲載されていたが、何とその大半に詩や短歌や俳句など(以下、詩歌と呼ぶ)の再評価が述べられていた。ちなみに、執筆のほとんどは、散文表現を専らとする小説家や評論家などであった。このことは裏を返せば、近代合理主義に根ざした近代文学の逼塞と、それを打開するための「言葉の力」が日本文学の原点である詩歌に秘められているということへの再認識を示すものと言えるだろう。
しかし、そもそも詩歌もまた近代文学に包摂されるものと考えるならば、いま日本文学に求められているのは、現在の詩歌そのものではなく、あくまでもその文学性におけるラジカルな「言葉の力」であるということを心得ていなければならない。前述した「文藝春秋」の特集において引き合いに出されていた詩歌の大半が江戸時代以前のものであることもその証左と言える。このことは、江戸時代以前の日本文学が記紀歌謡へと溯る日本語に特異的な「言葉の音楽性」というものを保持していたからなのだと思う。もちろん、江戸時代以前の文学もまたしばしば形式主義に陥るのだが、その都度、感情と理性が調和した「まこと(真言)」の精神へと立ち帰ることによって旧染が打破され新たな文学の思潮を形成していったことは言うまでもない。そうした言葉と心が一体化する原初的な精神性の復活に大きく寄与しているのが、まさに「言葉の音楽性」なのである。
近代文学が頽廃したのは、現代文化における情報媒体の主流が活字から映像や音響によるマルチメディアへと変遷したからなのではなく、近代文学自体が「言葉の音楽性」を見失ったからなのだと思う。それは小説などの散文に限らず、現在の詩歌においても同様のことが言えるだろう。例えば、俳句界においては、高浜虚子が恣意的に俳句の必要条件とした「花鳥諷詠」という思想と「有季定型」という規則によって、近代俳句は「言葉の音楽性」を見失い、現在もなお、形式主義に甘んじる俳句が増産され続けている。逆に、そうした「言葉の音楽性」を喪失した俳句を「近代俳句」と整理することによって、真の現代俳句というものの在り方が見えてくるのではないだろうか。

衰退する「言葉の力」
「言葉の音楽性」に根ざした詩歌における韻律は、固定観念に囚われた「言葉」と「心」を解放すると共に、それによって生々しい「物自体」や「事自体」を顕現化する作用を持つ。そうして現れる原初的世界における「言葉」と「物自体」や「事自体」との新しい関係性の再構築こそが詩的創造なのだと思う。もちろん、そうした詩的創造が優れたものであるためには、そのプライオリティーと、読者に大きな感動を与えることの両方を満さなければならないことは言うまでもない。換言するならば、古人が求めた所を求めると同時に、創作による新しい関係性が直感的な集合無意識に根ざしていなければならないと言えるだろう。そして、この通時的かつ共時的な要素の統合にも「言葉の音楽性」に裏打ちされた韻律が深く関わっていることも付け加えたい。
ちなみに、西洋における原初の言葉は、古代ギリシアにおいて音楽に規定された韻文である「ムシケー」という存在として想定され、その「ムシケー」から「散文」と「音楽」とが分離独立し、さらに「散文」から、言語的に規定された韻文としての「詩」が発生したことが、T・G・ゲオルギアーデスによってすでに解明されている。もっとも、ここで言う「言語的」とは、論理的あるいは理性的という意味合いで用いられており、つまり、西洋における「詩」と、その濫觴《らんしょう》から一貫して「言葉の音楽性」に深く根ざした日本の詩歌は根本的に異質なものと言わざるをえない。むしろ、日本の詩歌は「ムシケー」そのものと言って良いかもしれない。しかし、現在、「有季定型」を盲信する作風が主流を占める現在の俳句は、そうした「ムシケー」的要素や「言葉の音楽性」によって獲得されるべき「言葉の力」を失っている。もちろん、俳句に限らず「言葉の力」を失った今の日本文学は、真の「現代文学」と言うことはできない。むしろ、それは「現代」という仮面をつけた「近代文学」の死に体に過ぎないのである。

近代文学の終焉
正岡子規を含めて、それ以前にもことさら「有季定型」が俳句の必要条件とされることはなかった。つまり、今日において主流をなす近代俳句は、高濱虚子による「有季定型」という俳句様式の自己限定に収斂される。それではなぜ虚子がそれ以前にことさら言挙げされなかったことに執着してしかも恣意的に俳句の必要条件を唱導したのか。虚子は『俳句への道』のなかで次のように述べている。「俳句でない他の文藝に携はつて居るものが『花鳥諷詠』を攻撃するなれば聞こえるが、俳句を作つてゐる者が『花鳥諷詠』を攻撃するといふことはをかしい。俳句は季題が生命である」と。この虚子の主張に鑑みれば、「有季定型」の真意は、近代俳句が他の韻文文学あるいは散文文学を他者としてその独立性を保持するための自己限定にあったのではないかと思われる。そうであれば近代俳句の存在は近代文学全般における相対的地位に依拠していると言うことになる。
さて、アメリカの社会学者であるD・リースマンは、その著書『孤独な群衆』で、社会における「主体」という視座から「伝統指向型」「内部指向型」「他人指向型」という三つの人間類型を提唱したが、これを援用しつつ柄谷行人は「近代文学の終り」(『早稲田文学』)で次のように述べている。
日本的スノビズムとは、歴史的理念も知的・道徳的な内容もなしに、空虚な形式的ゲームに命をかけるような生活様式を意味します。それは、伝統指向でも内部指向でもなく、他人指向の極端な形態なのです。そこには、他者に承認されたいという欲望しかありません」と述べ、一九八〇年代から顕著になったのは、「主体」や「意味」を嘲笑し、形式的な言語的戯れに耽ることだと指摘した。そして『それは、グローバルな資本主義が、旧来の伝統指向と内部指向を根こそぎ一掃し、グローバルに「他人指向」をもたらしていることを意味するにすぎません。近代と近代文学は、このようにして終わったのです。

そこで、俳句に立ち帰ると、実は、近代の散文文学よりもずっと以前から近代俳句は「有季定型」という自己限定によって他の詩歌を他者として意識してきたことに気付くのである。なるほど虚子が恣意的に定義した「有季定型」はやがてグローバル・スタンダードとなり、「主体」や「意味」を嘲笑する形式的な言語的戯れに耽る些末写生句の増産をもたらすことになったのである。つまり、極端な言い方をすれば、虚子による「有季定型」は、柄谷が指摘した「他者に承認されたいという欲望」に裏打ちされたものだったのである。このことは、すでに昭和二十年代に発表された頴原退蔵による次の箴言からも推測される。
俳諧は本来決して季感文藝ではない。一體俳諧が花鳥諷詠であり、季感文藝であるなどと説くのは、俳諧がいかにして発生したか、芭蕉がいかに俳諧の本質を解釋して居たか、そうしたことに全く無知な為ではないかと思うのであります。  『芭蕉俳諧と近代藝術』
つまり、頴原は、俳句の文学性を俳諧性に見据えており、季題や季語に拘泥する近代俳句の在り方は、芭蕉が極めた「軽み」における融通無碍なる詩境とは相容れないことに苦言を呈しているのである。「軽み」とは旧染を打破し新しみを求めることであり、そのためにはまず固定観念からいったん離れなくてはならない。しかし、そもそも言葉自体が固定観念による意味づけで成立している訳だから、言葉で構成される俳句にあっては、「言葉で以て言葉を超える」ところにその詩的創造性が存すると言って良い。

「切れ」の詩的創造性
最後に、私が思うところの俳句における詩的創造性について述べたい。その概要を示したのが次項の図である。
横軸は「観念の世界(言語的世界)」と「物自体の世界(非言語的世界)」を対極とし、縦軸は詩的昇華の度合いを示している。一口に風景(landscape)と言っても、単なる客観的対象としての実景(sight)と、見る側の主観が込められた情景(scene)という二つの要素があることを理解しておきたい。光景(spectacle)スペクタクルという語はラテン語のspectareに由来し、元来は突然出現するものとか、予期しないのに出現するもの、早くいえばお化けのようなものを意味する。

隠喩が「意味」の次元へと向かうのに対して、換喩《かんゆ》は「非意味」の次元へと向かうとされる。そして、隠喩はもうこれ以上、意味化することができなくなる場所、つまり、言語での把握が困難な「物自体」の世界に至ると、隠喩に代わって換喩の機制が優位になると考えられる。ちなみに換喩とは本来ある事物を表現する場合、それと関係の深いもので置きかえるものである。例えば、刀で武士を表すことはその一例であるが、これは既に概念化されたものである。むしろ、ここで言うところの換喩とは初めから想定された対象を表現しようとするのではなく、無意識的あるいは語音からの連想による言葉と言葉の連鎖的なシフトによって「非意味」の世界へと向かうものである。
さて、図に戻ろう。まず、「実景」に触発された詩想に応じて観念的世界に存する言葉が選択される。ここで単に観念的な言葉の意味合いだけで「実景」を捉えたに止まる句が些末写生句である。一方、「実景」に触発された詩想が固定観念から離れることによって見えてくるのが「光景」である。ここにおいて重要な役割を担うのが韻律であり、固定観念揺るがし言葉を解放するのである。
実はそこに見えてくるのが芭蕉の云う「物の見えたる光」なのであり、「切れ」の核心もまたそのあたりに存するのだと思う。しかし、あまりにも詩想が言葉の観念性を離れすぎれば妄想(図では破線の方向)となってしまう。そこで、再び詩想は「観念的世界」へと逆戻りしなければならない。そうすることによって詩想が他者の深い無意識的共感を獲得して見えてくるのが「情景」ということになる。しかし、共感がより浅いレベルに止まればもちろん充分な詩的普遍性は得られないことになる。そこで、さらに理性による詩想の観照が必要になる。つまり、自らの詩想がほんとうに新しいものであるかを反省的に検証しなければならないのである。そのために伝統的連想性や知識といった文化的記憶との照合が必要になることは言うまでもなく、そこにおいて類想的あるいは陳腐な表現が淘汰される。ここまで来て初めて詩想はその真価を問われる対象となる。そして、その真価が認められればそれは新たな文化的記憶や伝統的連想のなかに組み込まれて定着することになる。こうした一連の螺旋的展開を呈する詩的ダイナミズムが俳句における詩的創造の本質なのだと私は考えている。そして、改めて述べるが、その初段階において最も重要な役割を担うのが韻律なのであり、もちろん、それは日本語の音感や言語構造に深く関わるものである。
J・ラカンは、「無意識は言語のように構造化されている」と喝破したが、まさに、胎児期あるいは幼児期から聞かされる日本語による音声刺激によって、私たちの脳はその構造的成長が始まるのである。つまり、母国語はその音感を介して、理性や感情や記憶を司る脳を形成する文化的遺伝子の役割を担っているのである。意味以前の言語は胎児や幼児にとってはまさに音楽なのである。「有季定型」といった形式主義はもちろん、意味やそれに裏打ちされた散文をも超えて、言語が音楽にいったん立ち帰る瞬間にこそ俳句の詩的創造は求められるべきなのだと思う。
さて、俳句の詩的創造性は、自明の理として既に「ある」主体による叙述性を超えたところにある。つまり、まず「実景」に際して、「言葉」と「物」を結ぶ一次的指示作用による固定観念を韻律によっていったん離れることによって「ものの見えたる光」すなわち「光景」へと昇華する。そこにおいて感得した詩的真実は、「切れ」の技法によって「言葉」と「言葉」の再構築がなされる。そして、その新しい「言葉」同士の関係性つまり一種のメタファによって俳句は詩的創造を獲得することになる。しかし、あまりにも詩想が言葉の一次的指示作用を離れすぎれば妄想となってしまう。従って、この「心」(ひとりごごろ)なる詩想が他者に共感をもたらすためには、「情景」あるいは「場景」へと回帰して「情」(ふたりごころ)として無意識的共感に根ざす必要がある。また、併せてその独創性を検証すべく、伝統的連想性や文化的記憶との照合によって類想的あるいは陳腐な表現が淘汰されなくてはならない。名句とは、それがやがて新たな文化的記憶や伝統的連想として不易となったものと言える。こうした詩的位相が螺旋を描く詩的ダイナミズムにこそ俳句における言語芸術の核心が存すると考える。
ところで、日常生活の情報伝達において専ら用いられる日本語こそ、常に現在を生きる私たちの「実存」と深く関わっている。そして、その音声による情報伝達は個人を超えた無意識的連想として脳の記憶システムに蓄積され、共時的に社会的な共有感覚にも大きな影響を与える。また、通時的にも、例えば「歌枕」「俳枕」などのトポスや「季題」などにおける風土的共有感覚の醸成も相俟って、音声による情報伝達は、真に伝統的な日本の文化的遺伝子の進化にも大きな役割を担っている。もっとも、残念ながらこうした伝統性は次第に固定観念化されていくものであり、往々にして、それに依拠して言語遊戯化した俳句が作られることになる。芭蕉以後、蕪村以後における俳諧精神の停滞がそれである。そして、子規以後の近代俳句における停滞もまた例外ではない。もっとも、これを予見していた芭蕉は「軽み」という、日常卑近に詩性を洞見し、不断なる旧染の打破が重要であることを説いたが、その真意が忘れられて現在に至っている。まさに「軽み」による詩的昇華を保証するものこそが、集合無意識的な共有感覚であり、それがなければ、ただの独善的な妄想か軽口に終わってしまう。金子兜太が晩年に大事にした「生きもの感覚」というアニミズム的要素も究極的には集合無意識的な共有感覚である。そうした原初的な感覚にいったん立ち返ることが大事である。そのために俳句の言葉は脱観念化される必要があり、その契機となるのが、前述した音韻という「音楽性」なのである。それに裏打ちされた詩的創造性によって、近代俳句を超克すべき真の現代俳句における芸術的展開が期待されるものと考える。脳がまだ可塑性を保っている思春期までに聞かされる日本語によって私たちの脳はその構造的成長を完了する。「俳諧は三尺の童にさせよ」「句調はずんば舌頭に千轉せよ」と芭蕉が喝破した所以でもある。

「切れ」と「音楽性」による詩的昇華
これまで俳句における詩的創造について縷々述べてきたが、そもそも無限定なる森羅万象や日常生活を五七五という律動法(リトミーク)で詠むこと自体に「音楽性」の淵源があり、また、音韻による句調と内容との調和において、固定観念や既成概念あるいは日常的言語における「意味性」を揺るがすものとしての「音楽性」も措定される。今回は、「意味性」にのみ裨益して記号化する言葉とそれによって言語疎外が進む近代文学において、疲弊した言葉をいったん、ムシケーの次元、つまり、言葉の始原へと回帰させ、原初的な体感的共有感覚のうちに造化の神髄に根ざす詩境への志向性もまた別の意味において「音楽性」に包摂されるものとして論攷した。
最後に、そうした「音楽性」による詩的昇華を最も体現していると思われる句を取り上げたいと思う。
さまざまの事おもひ出す桜かな     芭蕉
貞享五年三月の作。『笈日記』には「同じ年の春にや侍らむ、故主君蟬吟公の庭前にて」と前文があり、伊賀上野へ帰郷した際に藤堂良忠《よしただ》(蟬吟《せんぎん》)の嫡男・良長(探丸)に招かれて、その別邸(下屋敷)で詠まれた句である。ちなみに、頴原退藏は次のように述べている。「芭蕉は脱藩の罪を犯した身だから、正式に藤堂家に出入りすることは許されなかった。『笈の小文』の本文に、芭蕉がこの句について何も語っていないのも、やはり憚った為であると思われる」(『芭蕉俳句新講』)と。しかし、芭蕉は、良忠の死後、その弟に仕えることを潔しとせず、脱藩したのだから、すでに二十余年を経て、五千石の侍大将となっていた良長にとって芭蕉を疎むことはなく、むしろ、自らも俳人となって探丸と号していた良長は芭蕉を厚く遇したのである。おそらく、その別邸は芭蕉もかつて蟬吟と訪れていたと思われ、その庭に立つ桜も一緒に眺めたことであろう。ちょうど良長は二三歳となっており、その姿は芭蕉に亡き主君の俤を彷彿させて感慨も一入だったに違いない。
掲句は、今は亡き主君・蟬吟と共に眺めたであろう桜の花を再び見つめながら、幾星霜における様々な出来事に思いを巡らす芭蕉の姿が目に浮かぶ。ところで、上五には母音aが多く、中七には母音oが多く、そして、下五には再び母音aが多いことが分かる。一般に母音aは軽く明い、母音oは重く暗い印象をもたらすとされる。つまり、まず首を上げて桜の木や空を仰いでかつての楽しかった昔に思いを馳せ、次には、おもむろに首を垂れて、泉下の蟬吟のことやこれまでの艱難を偲び、そして、再び、首を上げて今を盛りの桜を見ることができたことを喜ぶ芭蕉の姿や所作が、音韻のイメージと相俟って立ち現れてくる。
もっとも、掲句が人口に膾炙する要因としては、現在の小学生でも容易に諒解できる平易な表現であることがまず挙げられる。そして、そこには、芭蕉が晩年に志向した「軽み」の精神に連なるものが覗われる。人生の中で数十回ほどしか見ることができない桜の花と人との間には儚いがゆえに深い縁が生じやすいこともあるが、春の喜びを象徴するかのような美しい花の風姿と共に、日本人独特の美意識と共鳴する落花の潔さも相俟って、まさに様々な機微が生じやすい。そうした桜と日本人の特殊な関係性に裏打ちされた最も簡明で最も深長な詩想を体現したものとして掲句の真価が認められるのではないだろうか。
さらに付け加えるなら、掲句は一読すると、下五に「切字」があることによって、一句一章(一句のなかに「切れ」あるいは意味上の断絶がない形式)のようだが、上五・中七と下五の間に意味上の「切れ」が認められる。大抵は、桜を見た芭蕉がさまざまの事を「おもひ出す」と解釈するが、四段活用の「出す」は終止形も連体形も同じなので桜が主語とも取れるからである。そこに主客一如による詩境が立ち現れる。もちろん、最後の「かな」は切字であり桜を強調し、そのあとに続くべき何ものかを断ち切ることによって余韻を残す働きをしている。それと同時に「かな」によって下五が五音になることによって、五七五というリトミークが形成されることは言うまでもない。つまり、掲句は音韻と律動の交響としての「音楽性」によってその詩的昇華が扶翼されている。こうした様々な「切れ」の働きにも「音楽性」が深く関わっていることを再確認することが、近代俳句の超克において極めて重要なのだと思う。
さまざまの月みてきしがけふの月     長谷川櫂
まず「けふの月」すなわち中秋の名月を眺めている作者が彷彿される。ちなみに音韻的には、母音が o o u iとなり、地上から昇り出したばかりの月に相応しい。ここで「が」によって「切れ」が生じたとき、もちろん作者は単なる月を見ているだけではない。それは自分がかつて色々なところで見てきた月でもある。さらには、時空を超えて阿倍仲麻呂、藤原道長、西行、吉田兼好、芭蕉などがそれぞれに眺めた同じ月を彷彿させる。「さまざま」という音韻の高みは、そうした心の丈における高みである。
もちろん、それらの月はいま作者が肉眼で見ている月とは違うものであるけれども、古人の求めたところの月がまさに色々と見えてくる。それは「心の色」つまり「さび」を通して月の本性を色々に映し出す。その際、それら古人や過去の自分が見た月が眼前の月と一如となることによって、「もの自体」として本質的な月となる。すなわち「月」が固定観念から解放されることによって、そこに「物の見えたる光」が現れるのである。同時に、作者自身の意識も次第に拡大して最終的には宇宙と一体化し、やがて密教の月輪観を成就したあとのような清らかな心を作者は獲得する。そこにおいて「物の見えたる光」によって観照される、ほんとうの主体が立ち現れることになる。
そうした「切れ」による詩的昇華によって掲句は、これまでにない「新しみ」という俳諧の花として私たちの心に迫ってくるのである。しかも、そこには中今に仰ぐ月に一期一会の覚悟のもとに「生命」の有り難さも感じられる。「切れ」とは、こうした詩的昇華を介して、古い自分から新しい自分へと生まれ変わる生生流転の実相のなかに、はじめて真の主体を確認する詩法とも言えるのではないだろうか。

9月 きごさい+報告 「羊羹の不思議」

きごさいBASE 投稿日:2021年9月23日 作成者: dvx223272025年9月25日

画像提供:株式会社虎屋

 9月5日(日)第23回きごさい+がズームで開催されました。講師は、株式会社虎屋・虎屋文庫主席研究員の中山圭子さん。中山さんには、一年ごとに春、夏、秋、冬の和菓子についてご講演をいただき、四年で四季を一巡。そして今回のテーマは「羊羹の不思議」でした。
講座 レポート 
〇そもそも羊羹とは?
 羊羹は黒くて甘くてずっしりとした、ちょっと特別なお菓子のイメージがある。昔からある、だれでも知っている日本のお菓子だが、あらためて文字を見ると不思議、羊(ひつじ)の羹(あつもの)!? 
羊羹は古代中国の料理で、文字通り「羊肉入りの汁物」だった。鎌倉~室町時代、点心のひとつとして日本に伝えたのは禅宗の僧侶たち。禅僧は羊肉の代わりに小豆などの植物性の材料を使って精進料理の汁物を作った。
その後、羊羹は貴族や武家に広まり、饗応の席で出されるようになる。汁物から固形の料理・酒肴へ、そして茶会では菓子へと変化してゆくが、いずれも格式ある食べ物としてみなされていたことが、現在につながっているようで面白い。時代とともに形や味は変化しても、特別なおもてなしの食べ物だったのだ。

〇蒸羊羹、水羊羹、煉羊羹
 全国に様々な羊羹があると思うが、一般的には、栗蒸し羊羹に代表されるもっちりした蒸羊羹、夏場のひんやり水羊羹、これぞ王道の煉羊羹の三種が思い浮かぶ。
 江戸時代の初期から中期、菓子としての最初の羊羹は、小豆や小麦粉、砂糖を使った生地を蒸し固める製法の蒸羊羹と考えられる。蒸羊羹から形や柔らかさを変化させたいくつかのタイプが生まれるが、羊羹が革新的に変わったのは寒天で固める水羊羹の登場だ。寒天は日本の誇る食材で、なめらかな食感は蒸羊羹には無い魅力。この寒天を使った水羊羹を煉り上げたものが煉羊羹。煉羊羹の独特の弾力となめらかさ、また日持ちの良いことも江戸で人気を博し、数十年のうちに地方にも煉羊羹の製法が広まったという。
 明治時代、鉄道が全国に敷かれ、日持ちがし、持ち運びが便利な羊羹は旅の土産として広まった。内国勧業博覧会や品評会が各地で開催され、受賞を目指して特産品を使った珍しい羊羹も出品されたという。

〇羊羹の魅力
 羊羹は文学作品にも登場する。夏目漱石の「草枕」、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」などなど。陰翳を含む羊羹のうつくしさ、深さ、それは瞑想的だ、と賛美する「陰翳礼讃」の一文が、資料として配られ、中山さんが朗読された。谷崎の美文にうっとりし、羊羹の静けさの魅力をあらためて思った。材料もシンプル、色合いや形もシンプル、シンプルを極めると瞑想的になるのかもしれない。
 一方、近頃はあまり見なくなったが、お祝いの引き出物や正月のお重に詰められていた羊羹は、形も色もめでたく華やかな美しさだった。格式のある特別な羊羹、饗応の席の羊羹、この伝統がだんだん消えてゆくとしたら残念だ。

〇現在の羊羹
 現在は虎屋も他の店でも小形羊羹が主流だという。確かに、個包装で持ち運びも便利、切り分ける手間もなく一人で好きな時に食べられる。ただ漱石や谷崎が賛美したあの長く四角い棹羊羹の存在が、時代とともに薄れていくのはさびしい。
 味や形もバリエーションに富んでいて、デザインも多様。羊羹の定義は広く、寒天、小麦粉、葛粉などで固めたものは羊羹の一種と考えてもいいかもしれない。確かに小豆を使ってなくても、○○羊羹、あるいは○○羹というお菓子はたくさんある。それは日本人が「ようかん」の響きが好きだからではないか、「ようかん」は美味しいものというイメージがあり、名前につけると安心するのではないか、と中山さんは話された。なるほど、大いに納得した。
もともと中国で「羊」は美味しいものの意味があり、羊の字が三つと美という字で構成されている「羊羹」は、たいへんすばらしく美味しいもののイメージがある、というお話も興味深かった。
 虎屋はパリ(1980年出店)やニューヨーク(1993年出店、2003年閉店)に進出。パリ店では、現地の人に親しまれる羊羹を考案、販売しているという。果実や洋酒を使った羊羹、カラフルでデザイン性のある羊羹が紹介された。
 切り方、食べ方も多様で、クリームチーズを塗ったパンに羊羹のうす切りをはさんだサンドウィッチなどは試してみたいと思った。

〇講座のあとで
 講座の後、全国から、海外ではタイからの参加者も交えたトークの時間となった。参加者には地元の珍しい羊羹や羊羹の思い出などを話してもらったが、それでも「大事な方への贈答は虎屋の羊羹にしています」という声が多かった。羊羹といえば虎屋、虎屋といえば羊羹である。美味しさ、品の確かさ、格式、必ず先方に喜ばれるはず、という信頼と安心があるようだ。
 ズームでの開催だったが、画面に映る貴重な史料や画像、中山さんの楽しくわかりやすい解説に、あっという間の時間だった。羊羹の不思議な歴史、羊羹の奥深い魅力、製法の違いやバリエーション、お話は多岐にわたったが、どれも興味深い内容だった。外国のものが日本に渡り、日本人の感性と職人の技術で日本独自のものに完成する。羊羹も日本文化のあり方を示すものだった。

〇虎屋文庫とは
虎屋歴代の古文書や和菓子に関する資料収集、調査研究を行っている株式会社虎屋の菓子資料室。
一昨年の2019年に 再開御礼!「虎屋文庫の羊羹・YOKAN展」を開催。同年、新潮社から「ようかん」を出版
2021年9月17日~11月23日 こんなところにも!「和菓子で楽しむ錦絵展」 赤坂店・虎屋ギャラリーにて開催中

〇句会には羊羹の句がたくさん出た。美味しいだけでなく、羊羹にはイマジネーションを掻き立てる何かがあるようだ。それも羊羹の不思議だろうか。       (葛西美津子記)

句会報告   選者=長谷川櫂、中山圭子
◆ 長谷川櫂 選
【特選】
栗ようかん栗のあたりを包丁す    上田雅子
羊羹や柚山のひかり一棹に      西川遊歩
羊羹はしづかなお菓子今日の月    金澤道子
湯気真白まんぢゆう真白秋彼岸    葛西美津子
日に透ける柿羊羹の一片を      飛岡光枝
羊羹にまつたき栗のあらはるる    斉藤真知子

【入選】
羊羹の一切れ秋のゆふべかな     葛西美津子
切り分けし厚さ見比べ栗羊羹     高橋慧
弁当箱母の作りし水羊羹       上松美智子
コーヒーと羊羹のある夜長かな    澤田美那子
羊羹や釣り花入れに山桔梗      矢野京子
日に月に待ち遠しきは栗羊羹     葛西美津子
秋日差す古き暖簾や和菓子売る    上松美智子
江ノ島にのり羊羹や居待月      金澤道子
羊羹の恋しき秋のはじめかな     矢野京子
砂糖噴く羊羹の角秋うらら      石川桃瑪
漱石忌羊羹そなふ猫の墓       川辺酸模
草で染め色なき風にさらしあり    北側松太
羊羹がうまくなる頃やや寒し     北側松太
羊羹を前にせはしや秋扇       矢野京子
懐中に小さき羊羹秋遍路       長井はるみ
羊羹を提げて父来る秋日和      斉藤真知子
羊羹の漆黒の秋深みゆく       飛岡光枝
羊羹に渋茶添へたる夜食かな     川辺酸模  
今朝秋の水に黒文字浄められ     長井はるみ

◆ 中山圭子 選
【特選】
栗ようかん栗のあたりを包丁す    上田雅子
羊羹の黒はなやかやけふの月     長谷川櫂
羊羹は瞑想の菓子秋の風       長谷川櫂
懐中に小さき羊羹秋遍路       長井はるみ
一塊の羊羹にある秋思かな      斉藤真知子
【入選】
夜は長し羊羹にお茶いれかへて    金澤道子
鈴虫やふるさと行けぬまま秋に    田中益美
「夜の梅」塗りの菓子器に秋深む   高橋慧
奥美濃は色づく頃か柿羊羹      川辺酸模
水ようかん左党の君は無関心     上田雅子
秋日差す古き暖簾や和菓子売る    上松美智子
砂糖噴く羊羹の角秋うらら      石川桃瑪
登りきて羊羹タイム天高し      金澤道子
橡餅や知らぬふりして聞く話     イーブン美奈子
羊羹や湯呑をあがる秋の湯気     北側松太
芋羊羹まづ仏壇へ秋彼岸       石川桃瑪
まぼろしの藤むら羊羹露の玉     西川遊歩
深く濃く餡煉り上げん夕月夜     イーブン美奈子
羊羹の皿選びをり秋時雨       澤田美那子
羊羹に渋茶添へたる夜食かな     川辺酸模
今朝秋の水に黒文字浄められ     長井はるみ

11/14(日) Zoom でHAIKU+、講師は五島高資さん

きごさいBASE 投稿日:2021年9月6日 作成者: dvx223272021年11月23日

「HAIKU+」は、現在ご活躍中の俳人・俳句研究者をお迎えして、「俳句で今何が問題か」という統一テーマで俳句の未来を考える催しです。
今回の講師は俳人で俳句スクエア代表の五島高資(ごとう・たかとし)さん。

コロナ禍の状況を踏まえ、Zoomを使ったオンライン講演となります。
Zoomは初めてという方も、パソコン、スマートフォン、タブレットを使用されていれば、比較的簡単に視聴できます。ただし事前に参加申し込みが必要です。詳細は下記の<申込み案内>をご覧ください。

日 時: 2021年11月14日(日) 13:30から

演 題 : 近代俳句の超克・・「切れ」再考

講 師:  五島 高資 (ごとう たかとし)

<プロフィール>
1968年長崎市生まれ。金子兜太に師事。現代俳句新人賞、加美俳句大賞・スウェーデン賞、現代俳句評論賞など受賞。「俳句スクエア」代表、「俳句大学」副学長、「豈」同人。日本俳句協会副会長、現代俳句協会オープンカレッジ講師、日本文藝家協会会員。医師、博士(医学)。評論 :『近代俳句の超克』(日本俳句協会)、近刊 :『芭蕉百句(英訳付)』(風詠社)。

<講師よりひと言>
これまでの近代俳句が西洋の自然主義的な、いわゆる「客観写生」を重視しながら、形式主義や言語遊戯に傾くなか、真の現代俳句の在り方を考える。そのためには、まず「ものの見えたる光」を捉えることが大事であり、俳句を芸術の域に高めた芭蕉による俳諧精神、特に「切れ」の詩的創造を知らなくてはならない。

2021年11月14日(日)
13:15 Zoom入室開始
13:30~15:00 講演
15:00~15:45 藤英樹(きごさい編集長)との対談、質疑応答

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長谷川櫂選 きごさい
1,000円
2011年5月刊行


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