七月に入ると、商店街は、願いごとを書いた五色の短冊を吊した七夕竹を店先に立てる。駅前のロータリーに立てられた華やかな七夕竹を見るたびに、去年の七月七日に亡くなった友達のことを思いだす。今だに悲しみを引きずっているのだ。
友達のTとは、美大の受験生のとき初対面で意気投合し、すぐに仲良しに・・・・。それからずっと親交を深めてきた。結婚し、生活が一変して
もまめに連絡し合い、よく旅をした。
だが、ここ数年、互いに多忙をきわめ一年に一度くらいしか会えなかった。「私達、牽牛星と織姫星のようね」と話し合ったものだ。それなのに、年に一度どころか永遠に会えなくなろうとは・・・・。Tは愛にあふれた女性だったので一緒にいて幸せだった。せめて、彼女のためにも七夕の句を詠むときは、美しく幸せなものでありたいと思う。
最近、長谷川櫂さんの句集『鶯』の中の
七夕の空美しや出雲崎
を読んで、どきっとした。Tがいつも出雲崎に行きたい!と言っていたからである。
良寛の生誕地への見事な挨拶句であると共に、読者を旅へと誘う。美しさとスケールの大きさ。これこそ、七夕の理想的な句である。(季語歳理事 写真=七夕飾り)
カテゴリーアーカイブ: リレーエッセイ
リレーエッセイ017 ヒトガタ 北側松太
我家の名越の祓いは、人形(ひとがた)に家名を添えて家内安全と記し、賽銭と共に氏神である八幡神社に奉納するものであった。
人形(ひとがた)は本来、息を吹きかけられたり触れられたりして人の穢れをもらい、川に流されることで、禊とするものであるから、我家のそれは本筋と少し異なる。本筋と違うということが分かったのは、俳句をするようになってからのことで、それまでは、何のために六月晦日にお参りするのかさえも分からなかった。
「名越の祓い」でいう「穢れ」は、贖罪の対象となる精神的なものというより、疫病を引き起こすような、目に見えない細菌類を指すのであろう。「名越の祓い」にとどまらず、夏、それも梅雨どきの季語の中には、疫病退散を願う季語が少なくない。「菖蒲湯」「祇園祭」などは、その代表的なもの。我家の人形(ひとがた)も「家内安全」と記すよりは、「疫病退散」と記すほうが、本筋に適っているのだろうが、五年前に引っ越してからは、前もって届く人形(ひとがた)も届かなくなった。最近では名越のお参りもご無沙汰している。(季語歳理事 写真=片白草)
リレーエッセイ016 ミッドサマー 飛岡光枝
歌人・永田和宏さんのエッセイ『もうすぐ夏至だ』(白水社刊)はこう始まる。「もうすぐ夏至だ。冬至の日はうれしい。これからどんどん明るくなるのだと思うと、まだ真冬だというのに心が明るむ。夏至は嫌だ。あとは明るい時間がどんどん短くなってゆくばかり」この作品の背後には夫人・河野裕子さんの闘病という重い現実があるのだが、一文は「夏至」に対する日本人の気持ちをよく表していると思う。
冬の厳しいヨーロッパでは夏至の祭がさかんに行われる。シェークスピアが『夏の夜の夢』で描いたように短い夏を思い切り楽しみ、豊穣や恋の成就を祈って歌い躍る。それに対し日本の夏至は梅雨のさなか、湿度の高い厳しい夏を間近にひかえて、喜んでばかりはいられない。
でも、せっかくの夏至をもう少し楽しみたいものだ。冬至の柚湯にならって、夏至には柚の花を湯船に浮かべたらどうだろう。さわやかな香りで、梅雨のうっとうしさも解消されよう。柚の花の入浴剤が売り出されるのなら、商品名は悪戯好きの妖精にちなんで「パック」と名付けてほしい。媚薬効果も期待できそうだ。(季語歳理事 写真=百合の丘)
リレーエッセイ015 父の日 川村玲子
父が存命の頃は「父の日」といわれてもなんだかなじみが薄かった。誕生日のプレゼントをすることはあっても、「父の日」は、なにも特別なことをしなかった。子供の頃、ある朝、雨戸を明けると庭が一面、真っ赤な罌粟の野原に変わっていたことがある。「手入れしてある庭にやみくもに種をまき散らすなんて」と母には大不評だったが、わたしたち子供たちは大喜び。背丈ほどもある緑が風に揺れるたびに、庭いっぱいに真紅の紙のように軽い花が揺れる。
めちゃくちゃでアナーキーな「お父様の魔法」は、その年一度きりだったが、数日間夢のようにつづいた。毎年5月から6月には、見渡すかぎり真っ赤な罌粟の野原に思いがけず行き逢うことがある。そしてまもなく「父の日」が来る。「父の日」は「父を思い出す日」になったのかもしれない。(季語歳監事 写真=罌粟の花)
リレーエッセイ014 更衣 福島光加
小学校から高校までの12年間、同じ制服を着て通った。
夏の上着は 白い長袖と半そでの二種。白いセーラーカラーの襟を縁取る線も白で、小学生は一本。その上のお姉さんたちは2本。
きっちりと6月1日でなくても、5月の末になると いつ衣替えのサインを出すか、先生たちは 気温を見ながら職員室で検討していたらしい。何しろ育ち盛りの子供たち。紺の重い制服は 暑い日にはつらい。
GOサインの出た翌朝は、大通りをまがり学校に通じる小道を登校していく小学一年生から、すっかりおとなの最終学年の学生たちまでの真っ白い集団は、初夏の光を受けまぶしいほどだった。そのなかにまじって、身も心も軽々と、この日は特別になんだかうきうきとした気分にさえなったものだった。
後年 花の仕事をするようになり,このころになると 稽古の花材に梅花空木が出てくる。もうそんな季節になったのかとゆるい孤をえがく枝を手に取れば、あくまでも白い花を浮き立たせるような、濃いけれど明るい緑の葉。目にも涼しげなこの花は、季節が一気に夏へと移っていくしるし。
さあ今年はどのくらい暑くなるか。夏に向かう小さな覚悟も、そこには向けられているような気がする。(季語歳理事 写真=梅花空木)
リレーエッセイ013 母の日 藤原智子
「ぞうさん」は誰もが自然に口ずさむことのできる童謡だろう。
♪ぞうさん ぞうさん おはながながいのね そうよ かあさんもながいのよ
では、二番はどうだろうか?昨年、子供が一歳になる少し前に歌ってみようとしたが、歌詞を思い出せなかった。仕方がないので一番を二回繰り返して歌った。「ぞうさん」に限らず、二番以降の歌詞がうろ覚えだったり、知らなかったりする童謡は多く、気になるのでCDを借りてきた。「ぞうさん」の二番はこうだ。
♪ぞうさん ぞうさん だれがすきなの あのね かあさんがすきなのよ
「すき」という甘くまっすぐな言葉に驚く。また、自分に向けられているようでたじろいでしまう。さて、「母の日」。毎年、デパートをふらふらと歩き回った挙句、結局ささやかなお菓子に「お母さんありがとう」のカードを添えて贈るくらいしかできず、もっと上手なプレゼントができたらと思っていた。この日、本当に伝えたいのは、感謝の気持ちを超えた「すき」の一言なのだろう。でも、それは言う方も言われる方も照れてしまう。「ありがとう」もプレゼントも照れ隠しなのだ。(季語歳スタッフ 写真=カーネーション)
リレーエッセイ012 こどもの日 髙田正子
いつのころだったか、こんなふうに思っていた。「こども」の日なのに、どうして男の子のお飾りだけなのかな。でもまあ、お雛さまを飾ってもらったばかりだし、二度もお祝いがあって女の子はラッキーかも、と。
すかすかした雛あられより、みっしりした柏餅のほうが好きであったし、なにしろ五月五日は学校が休みである。いつしか五月五日贔屓となっていたこどもの私。だから「端午の節句(=男の子を祝う日)」が化けただけの日と知ったときの、裏切られたような気分といったら。
今、わが家には娘がふたりいる。飾るものは無い。ならば食欲でと思えど、次女は生まれてこの方、ちまきも柏餅も食べようとしない。ならば残るはこの手しかあるまい。
さうぶ湯やさうぶ寄くる乳のあたり 白雄
長女十九歳、次女十六歳。なかなかに眩しいさうぶ湯ではある。(季語歳理事 写真=武者人形)
リレーエッセイ011 八十八夜 稲田恵子
立春から数えて八十八日目を八十八夜と言います。今年は5月2日。春から夏に移る節目のこの日は、霜も降りなくなり安定した季節に入るころ。苗代のもみまきにも最適な頃で、農作業も一段と忙しくなります。「八十八」を組み合わせると「米」という字になり、豊作を願う農家にとっては、縁起のいい大切な日とされてきました。
一方で、「八十八夜の忘れ霜」「さつき寒」とも言われ、急に気温が下がって霜が降り、農作物に思いがけないぬ被害を与えることもあります。八十八夜はこれを警戒し、冷害を回避する目安の日でもありました。
「霜なくて曇る八十八夜かな」 正岡子規
「霜害を恐れ八十八夜待つ」 高浜虚子
文部省唱歌「夏も近づく八十八夜、♪♪」のメロディーが思い浮かびます。茶畑に昔ながらの赤いたすきにかすり姿の娘たち。八十八夜に摘み取られお茶は極上で、古来より不老長寿の縁起物の新茶として珍重されてきました。(季語歳監事、写真=広島地方での茶摘風景)
リレーエッセイ010 仏生会 坂内文應
芭蕉は杜国と吉野山で花見をして、灌仏会(かんぶつえ)の日にたまたま奈良に降りてきていた。旅という不確定性のなかで、まさに折しもということだったに違いない。「潅仏の日に生まれあふ鹿の子かな」は元禄元年(翁45歳)、旧暦4月8日のこの日の作である。”生まれあふ”に芭蕉の祝福のまなざしがたっぷりと感じられる。あたかも、釈迦にかわって小鹿が生まれきたような輪廻感さえ感じられる句である。
どの寺の花御堂(はなみどう)も、あらかたは,昔からそう大きなものではない。だが近寄って、甘茶の水盤に立つ稚(いとけな)きその姿を見てみるのは、きっとよいことだ。その姿は、なんとも愛おしくも尊い。
生まれてすぐに七歩歩むと、ちいさな右手を上に、左手を下へ向け「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」つまりは「天にも地にも我ひとり」と呟いた、この場合、「われ」とは「人類の総体」の意であろう。超時代的な、精神の独立宣言のひとつ、最重要な場面とさえいえる気がする。しかし、鹿の子は生まれてすぐに、よろけながらでも立つけれど、人の子は立てないではないか・・・お説ごもっともである。あくまでも寓話であり、形象化ではある。でも、まことに幼きこの発言者の姿を嫌う人はまずはいないにきまっている。(季語歳副理事長 写真=花御堂の甘茶仏)
リレーエッセィ009 十年後の花見 中野津久夫
3.11の東北関東大震災で、私には宮城県の名取市、石巻市、岩手県の山田町、気仙沼郡の住田町、みな海辺の町に住んでいた4人の友人がいた。家は全滅したが寸前に助かった者2人、未だ連絡がつかない者2人。生死に明暗あり。被災に遭われた多くの方々には、新潟の地ではなすすべもなくただ祈るだけの日々が続いている。
山桜植樹担当となって三年、会員各位のご協力のもとに、韓国も含め全国6か所に、山桜364本を植樹させていただいた。百万本には程遠いが、毎年植え続けてゆくことが、会員の願いを成就させる本会の使命の一つだと思っている。
きっと被災地はこれから阪神淡路のときと同じように、力強い復興がなされるだろう。願わくは、それらの地に、NPO法人季語と歳時記の会の山桜植樹会が開催される日が一日も早く来ることを希っている。
いま、私は十年後の花見を計画している。それは、わが裏山に大きな山桜がある。この桜は、毎年、実に清楚な白い花を咲かせるのである。この山桜の苗を育て、裏山を桜の山にすることである。今年私は満開の山桜に友を偲び愛でた後、桜の実を拾い集め、これを水に浮かべ良い種だけを選別し、そして秋に畝に播種する。雪の降る前には越冬用に藁を敷きおくことも忘れない。雪の下で力を蓄えた桜種。必ずや来年の五月頃には、凛とした発芽を見ることができるだろう。これがすなわち山桜の「実生」である。
毎年、山桜の実を播き続け、十年後にはささやかな「実生園」にしたい。雪深き処ゆえに、簡単ではないことも覚悟しているが、「運」「根」「鈍」を心に、接木や挿し木ではない実生からの山桜を育てたいと願っている。そして、何年先になるかわからないが、その実生で育てた山桜を、被災に遭った地へ植樹に行きたいと切に思っている。(季語歳理事 写真=加茂市加茂山公園の桜)
